腐り落ちた果実の匂いがした―この果実とは何だろうか。徹底的に純化された、人の思いのひとつである愛が狂気に至る一歩手前で踏みとどまる。そんな恐ろしくも美しいアイ(≠愛)が多くの読み手を惹きつけ、赤い雪へと変えていく。
腐り落ちた果実の匂いがした―この果実とは何だろうか。そんな思いが浮かんだ。作品内では言及されていないので分からない。しかし、この作品のイメージとして合いそうな匂いを考えたとき、私は梔子の花の匂いを思い浮かべた。家の近所の団地の周りにはこの木が多くあり、駅に行く途中にその匂いがすることがたびたびあるが、私はこの匂いが好きだが嫌いという二律背反的な思いを、いつも匂いをかぐたびに抱いてしまう。なにか鼻に残る匂いの感じが、この作品の「果実」の匂いのイメージにピッタリだと思った。
「腐り落ちた果実の匂い」―蔵女がその赤き爪で傷つけたものには、本人にのみ傷口からその匂いがするというが、これはこれから起きることへの隠喩であるとも受け取れる。人の気持ち、それも願望という果実が大きく膨れ、熟れてやがてその重みと熟成に耐え切れずに(熟成に耐え切れずとはおかしな表現ではあるが、熟しすぎてその実自身を傷つけて腐るという意味)落ちていく…。腐りきった果実はもちろん土に帰す運命である。それは滅びを暗示している。また人の願望とは得てして叶わぬものであり、叶いそうにもないことだからこそ願望なのだが、それはとても「甘い」ものである。それは果実のイメージに結びつくのではないだろうか。また、爪で傷つけられた者は自身が甘い果実となってその香りで人を誘惑するのではいだろうか。それぞれの人(きりこ、夏生、芳野)が全員腐る前にはその願いとして、心と体の結びつきが、特に性的関係をもつことが叶えられている。(心の問題もあるので願いの全てが肉体関係ではない)この原因は、ただ単にたまたま爪に傷つけられた人全員の願いが性的関係を持つこと(もちろん心の結びつきもある)だったからではなく、爪で傷つけられた人は果実、それも「腐り落ちた果実の匂い」をもつ果実になったからではないだろうか。
腐ってしまった人は次の繰り返し(四日間を何回か繰り返す)で、抜け殻として記されている。それは表面上は腐る前と変わらないが何かが欠落しているのだ。この腐るということと抜け殻についてはかなり考えさせられた。どういうことなのだろうか、と。人が変わってしまったという意味なのだろうか(この場合特別な本人特有の想いがなくなっただけで、その中身はあるという意味)、それとも中身がない、心がない、ロボットのようなもの、全く別の物体(≠別人)になってしまったという意味なのか。結局話の最後のほうに五樹が樹里に会い、彼女との会話する所と後の彼の独白で、ある程度、先の問いに解釈し、答えることができるようになる。解釈をするに前の考えに若干量、後のものを足したものが先の問いの答えだと考えた。つまり抜け殻とは、その人の根幹にかかわるような願望(その人らしさを象徴するものだといっていい)を満たし、その望みを永久に望んでいたということすら思わないことによって、その人らしい想い、心を多く失った別人のことさすのだと思う。その人らしさを表す強い気持ちがないことに、五樹は強い喪失感をもち、そして中身のない人だと思うようになったのだろう。それは決して今までの人が中身がロボットか宇宙人になったというわけではないのだ。うまく言えないが、例えるなら、あたかも五樹のように記憶喪失になった人が今までとは異なる人になったのに似ている、ということだ。(五樹自身もその点について自己言及しているが、話の内容の大事なところなので、万一この作品をやらずにこの超長文を読んで下さっている方がいらっしゃると良くないのでこれ以上詳しくは述べません)
ここまで書いて思ったが、語りたい(あえて「書きたい」とは記さない)ことが多すぎて中々まとめられない。今は時間があまりないのに、それでも早くこの気持ちを形にして整理したいという思いから、これから長いけれどもいろいろな感想や考えを全て記したいと思う。これから読んでくださる奇特な方へ最初にお詫びします。文章の流れ、文の運び方がおかしくても、お許しください。かなり長いです。
突然だが、今までやってきたライアーの作品に共通する所について考えたい。『FOREST』『SEVEN BRIDGE』『蒼天のセレナリア』とやってきたが、どれもすぐにその世界、作品の世界へと入り込むことが出来た。作品の多くは自分(プレイヤー)が作品外にいて、ゲームをやっているという自覚が出来るものである。「おいおい、このキャラ作品になじまないなあ」「この絵は変だぞ」など傍観して感想を持つことが多いのだが、ライアーの先に挙げた作品は違う。すぐにその世界へ入れるのだ。これは中身(構成、設定、本文)、絵、音楽、声の4つの要素がバランスよくあることと、中身が自分の好みに合っていることと、語りが(地の文が)うまいことが理由であるだろう。特に冒険物は語りが上手だと引きこまれる。ただこれだけではうまい説明ではない。もっと違う説明があるべきだと思っていた。しばらく考えた結果、「想像の喚起性」という言葉でうまく説明できるのではないかと感じた。すなわち、今までやった作品はどれも「想像の喚起性」が高い、豊かだ、ということだ。この言葉の意味は、作品がプレイヤーをその世界と人物を想像させ、かつ、思わせる性質のことである。それが高いということは想像させる性質が強いということだ。
特に『FOREST』とこの『腐り姫』で思うが、省略の仕方がうまいと思える。日本では和歌というものがあるが、これは言葉を出来る限り省いて最小限の言葉でその歌のもつイメージをどれだけ引き出せるか、どれだけその歌を読んだときにイメージを豊かにすることが出来るかが重要になる。当たり前だが和歌はポエム(≠詩)という文学表現方法に比べれば短い言葉数による表現だ。したがってポエムよりもさらに言葉を選び、省略して、作り手の気持ちや、情景などを伝える必要がある。その省略されたところは何で補うのか。(もしも書かれた言葉だけを読むだけなら、和歌などほとんど何も伝えてなく、面白みなど何もないものになってしまうだろう。)もちろん、それは「想像力」になる。これが省略された、しかしながら伝えたいモノを言葉以上にはっきりとしかも心にイメージできるよう説明するのである。逆説的だが和歌は言葉の数が少ないからこそ反ってその心情、情景をイメージしやすく読み手に伝えられるのだ。ライアー作品、特に『FOREST』と『腐り姫』では先に書いたうまい和歌のように省略の仕方が上手なのだ。これらの作品は全てを書き込まない。けっして説明的にならずに、伝えたいことがあればそれは省略、あるいは断片的な挿入の形を散りばめることで伝える。こうすることで読み手はさらにその作品に引き込まれる。しかもその省略、挿入のさいにかかるBGMはさらに雰囲気を盛り上げ、想像を喚起し読み手を作品世界へと誘い、惹きつけるのである。これは「想像の喚起性」が高いと言い換えられるだろう。しかしながら、この「省略・挿入」という演出・表現方法には、すぐ考えればわかることだが、ある種の危険性もつきまとう。それは、この方法がうまくいくのが想像を膨らませられる、つまりきちんと話の筋がわかることが前提であるということだ。裏を返せば、もし話の筋がわからないような省略・挿入なら、ただ作品を分からなくしてつまらないものにしてしまう可能性が大いにあるということだ。例えるなら、映画などで、エロスを出そうとして人の体の一部、目、口、手、脚、鎖骨などだけを映すのなら、うまくいくかもしれないが、これが足の指、耳たぶであったりなら、その人の全体像が想像がうまく出来ずにエロスが出ないだろうということだ。『SEVEN BRIDGE』『蒼天のセレナリア』は後半その点で失敗している。広げた風呂敷がたたみきれなかったということもあるが、謎が謎のままでしかも急に終わってしまう感がある。「いったい過去に何があったのだ」「結局、アレは何だったんだ」という感想を抱いてしまうのだ。(それでも良いところが他にいっぱいあったので私の評価は高いですが)
次に本作品の「内容・構成・文章」「雰囲気及び演出」「話の最後のほうの展開」「登場人物」についてそれぞれ述べたい。
構成に関して言えば、ループ物のように感じるが実は二回目三回目と少しずつ変わっているところがあり、必ずしも一回目に起きたことが二回目には起きない。なので、ある意味、共通パートの多い作品よりもループ的にならないのである。またループの一回目二回目三回目とそれぞれで少しずつ明らかにされていく真実、その出し方が上手い。また場面切り替え―回想、他の場所での出来事―が話の流れにあっていて良い。
内容は単純なジャンルわけの言葉では表現したくはないが、日本の田舎の怪奇もの、近親相姦、が要素として中心にあるだろう。その中に人の気持ちについて、互いが違った思いを持つことによる悲劇、純粋なる思いが狂気に変わったときの恐怖、死に逝くときに見える忌諱性と美しさが綺麗に織り込まれている。最後の展開は多分にSF要素があるが、これは好みが分かれるところである。ただ、漫画家の藤子F不二雄氏の作品が好きなら、多分受け入れられるだろう。たとえ、違和感を感じて受け入れられなくても、それが作品全体を否定したくなるほどのものではないことだけは言えると思う。
文章は読みやすくかつ心情を過不足なく伝えられるものとなっている。前々から思っていることだが、どうしてもこの業界(アダルトゲーム)のライターは評論に使うような言葉を使おうとする。言葉にも当然適所適材があって、会話で例えば「蓋然性」「大愚」などは使わない。これらは「確率的に、可能性として」「大バカ」に変えて使うものだろう。また地の文であっても先の言葉は物語・小説文にはふさわしくないだろう。しかも、これらの言葉が意味が通じるように使われているのならいいが、意味を分かっているのかと思うようなところに使う、まるで類義語辞典なんかで引いて調べた言葉を意味の違いなどを吟味せずに使うが如く、だ。詳しくは他の感想のところで述べたのでこれ以上は言わないが、プロの書き手ならばもう少しだけでいいので考えてほしいと思う。(細かいところで文句を言う人がいることも事実ですが、そういうことだけではすまないようなことろが多いような気がします。もう少しだけでいいのです。声に出してみれば分かると思います。おかしいものが結構あります。)
ゲームは一人称、主人公視点が基本で、しかもゲームの性質上、主人公とシンクロさせる効果も狙って独白形式が主流だが、どうにも独白が臭いと感じたり、独りよがり的な感じを受けたり、うっとおしいと思ってしまうことがある。もちろんライター(正確にはそのキャラ)との相性の問題、好みの問題かもしれないが、しかしそれだけが理由ではないと思う。原因として直接過ぎる気持ち、及び、抽象的で長い考えが独白にあるからだと思う。その点この作品では登場人物は直接心情を多くは語らず(セリフ心内文)、一部は比喩的に表現したり、表情、行動の描写で気持ちを表したり、考えなどを長くなく簡潔に述べたりして非常に好感が持てるし、人物に感情移入しやすいと思う。他の作品では自分と似ている考えのキャラでも長々とした独白や直接的過ぎるセリフなどでどうにも感情移入しにくくなってしまう所があるのだ。そういうことで、この作品の文、語りは良いものである。
この作品内の雰囲気はすばらしい。すぐにとうかん森の世界へと入れた。これは演出によるところが大きい。水彩画のような古くもあるが懐かしくも感じさせる、例えるならセピア色の写真のような感じの独特な塗りの背景。日本の古き田舎や、静かで幻想的な所や、物悲しくも美しい感じのする和風チックなBGM。そして背景に溶け込みように現れるメインキャラクターの絵(立ち絵も一枚絵ももちろんある)。これらがすべて最高の状態でかつ均衡を保ちながらこの作品の世界を生み出している。中村哲也氏の絵は好みが分かれるかもしれないが、この作品の雰囲気を壊さないものであることだけはおそらくどちらの立場であっても一致するだろう。私は中村氏の絵はこの作品にあっていて好きだ。
終わり方は3つあるが、どれもいい。1つだけの方がいいとの声もあるようだが、これで良いと思う。どれも欠けてはいけないものではないだろうか。それぞれの終わり方で作品の解釈にも幅が広がるし(あまり触れなかったが実は作品の時間軸などの構成には不整合なところがあると思うが、全てをあるがままに受け止めるということで許されるくらい気にならいものだと、この作品にのみ言える)、何よりプレイヤーが選べるのが嬉しいと私は感じた。
登場人物に関して、まず声は声優さんは全員上手でキャラにあっている。特に蔵女、芳野は前者には幼子、後者には親としての声の演技が上手なのはもちろんのこと、時々見せる艶のある声もまた素晴らしい。どちらもきちんとバランスよく出せるところにプロだなあと感じさせられた。人物像に関して登場人物の誰もがきちんと魅力をもって描けている。めてお氏は群像劇的なものが好きなのか、そんな印象をこの作品に感じた。それぞれの過去も味わいがある。樹里の話は狂気と愛の狭間にある美しい一筋の光を見た気がした。「赤い婚礼」は鳥肌が立つと同時に恍惚感も憶えてしまった。青磁の話も五樹との苦くも美しい、友情を超えたものがあり、気に入っている。ただなんといっても、最も共感し自分を同化させてしまった人物は芳野だ。彼女は好きな人に頼られるが愛されず、その息子に愛した人の影を重ねてしまい苦悩する。彼を義理の息子として迎えるが、その苦悩は計り知れないだろう。良き母でいようとすることと、亡き人に愛されなかったために、よりその影をその息子に重ね倒錯した想いを抱いてしまうこととの葛藤は、私はそんな経験がないのにもかかわらず、痛いくらい共感できた。彼女の最後、ある出来事の後に幸福感を自ら増大させ、気が狂わんばかりの興奮し、落ち着いた後に「幸せすぎて怖い」と言って腐り落ちる様は涙ぐんでしまった。ここも痛いくらい共感できる。幸せはその先に「失ってしまうのでは」という恐怖感が常に付きまとうものだ。彼女が消えてしまう悲しさとその恐怖から鳥肌がしばらくは治らなかった。夏生のときも思ったが、芳野が腐って後に繰り返しで出てきたとき、しかも抜け殻となったときは心の臓が痛むくらい悲しく、大きな喪失感を憶え、とても辛かった。私がとても想いを強く抱いた人物、それが芳野だった。
長く書きすぎたと思う。でも私は満足できた。ここまで読んでくださった方がいらしたら、お礼申し上げます。ありがとうございました。この作品はお勧めです。私も書いていてもう一度(何回もやったが)読みたいと思う。小説のように深く味わえる作品、それが『腐り姫』だ。本当にここまで長く、満足いくまで書けて幸せだ。腐り落ちた果実の匂いを感じ、赤い雪へと変わり消える自分を今、想像している。