いろいろと言われているが、やってみる価値のある作品。なぁ、あんたもそう思うだろ? …というわけで批判されている理由についてもいろいろと考察してみました。
まずは感想です。批判についての考察は下のほうで。
確かに、ほとんど共通ルートで2週目以降は問題があり、ご都合主義であることも認めよう。しかし、そんなことよりももっと評価すべき点が多い。
あの最大の伏線の真実が明かされたときに驚き、そして納得。よく考えれた舞台設定。この現実世界がSFというのは斬新であった。
2章では、多くの人が陥るであろう怠惰を最もよく表現しており、あとから取り戻そうとしても最初に怠けた分が足を引っ張りうまくいかないところが評価できる。もしこのときあの絵が完成していたらそれこそご都合主義で、感動が薄かったであろう。(賢一の性格を考えれば義務の厳格化で奪った時間を本当に必要なときに与えるという筋書きは読めるがそんなことよりも)あのめんどうくさがりで楽ばかりしようとするさちがまなの為に寝る間も惜しんで時間を割き、まなもそれが分かっているから、さちの絵の本当のすごさを分かっているからこそ、中途半端な完成を許さなかった。
ここには“向日葵”の絵を描く少女がいた・・・
3章では親との対立、人への依存というこれまた現代の多くの人が経験する題材が描かれている。人に依存しきって自分で選択しなかった灯花が、最後にはどちらも選ばないという選択をして優しさで包み込んだ。
彼女の優しさはまるで、“向日葵”の花の色のようだった・・・
4章は過去の健となつみを反転して描いている。健は友達がいなかった。なつみはそんな健と友達になった。健はなつみと出会い変わった。しかし、夏咲はなつみではなかった。賢一ももう逃げ出したときの健ではなかった。こんどは賢一が夏咲を助ける番となった。
夏咲は“向日葵”のような笑顔の少女だった・・・
5章は姉とともに理不尽な社会に対抗する章である。この章では各章で成長した仲間が力をあわせていく。怠惰だったさちはもうない。臆病で何もできなかった灯花はもういない。人との接触を避けて向日葵のような笑顔を失ってしまった夏咲はもういない…。
“向日葵の少女”たちは、車輪に踏みにじられてもなんどでも立ち上がるのだから・・・
そして健も逃げなかった。最後に法月は言う「その先に絶望があると知ってなお登ってきたか」…この言葉の本当の意味は「車輪の国、悠久の少年少女」で分かることになる。
そう、この物語は仲間たちの成長物語としてよくできているのだ。だから、中途半端に社会批判をしているとか、ご都合主義すぎるとかはどうでもいいのだ。
・・・というのが私見です。ではここからは批判についての考察。
おそらく、この作品を批判するひと(内容)は次のようなタイプに分別されるでしょう。
タイプA ただのアンチ
言うまでもなく、「みんなが安易に評価している作品はちっともよくないぜ。俺にはそれがわかる」と言わんばかりの人がこのタイプです。
ちょっと自己陶酔が入っているんではないでしょうか?
そんな方々に、法月先生からお言葉を承っております。
法月「一度自分を見つめ直してみろ、最低な自分をな!」
まあ、ともかく、アンチが出現するということはそれなりに評価に値する作品であるとも言えます。
タイプB 社会批判が中途半端
おそらく、このように感じるひとは物語を読むときに、“物語が何を伝えたいのか?”を考えるよりも、“作者が何を意図しているのか?”を先に考えてしまう人でしょう。
たとえばセンター試験では、評論のところはいつもいい点が取れるのに、小説ではいいときと悪いときの差が激しいのではないでしょうか?
このような人は物語を客観的に読むのが得意で、文才もあるのだと思います。
でもその一方で、物語の主観性を感じ取る能力に欠け、あまり物語にのめり込めないと思います。
私が思うに、この作品のテーマは“向日葵の少女”であり、“車輪の国”ではないと思います。(『理不尽な社会をどうこうする』のではなく、『理不尽な社会で生きる少女たち』がテーマです。)
しかし、このタイプの批判をする人はテーマを“車輪の国”として、「作者が言いたいのは、現代の社会のあり方は間違っている!」と考えているのだと思います。
そのような捉え方をしてしまうと、この作品の評価はかなり変わってきて、まったく“何も解決していない”ことになるこのシナリオに納得がいかないのもうなずけます。
「車輪の国、悠久の少年少女」をプレイすれば分かりますが、この作品は“車輪の国”に生きる“向日葵の少女”とがテーマとなっています。(阿久津は社会をぶち壊しに行ったのではなく、最愛の“向日葵の少女”を助けにいったのでしょう?)
従って、このタイプの人には残念ですがこの作品は合わないので仕方ありません。
そもそも、PCゲームに社会批判を期待し、我々に何かを訴えるものであることを期待するのが間違いなのでは?
タイプC 物語が収束していない
これもタイプBとよく似ています。
物語のテーマを“車輪の国”に置いてしまうと、理不尽な社会を正すのが求められる結末であって、それはほとんど描写されていないことになる。
しかし、何度も言うように、この作品のテーマは“車輪の国”にあっても強く生きる“向日葵の少女”なので、捉え方が間違っていると思います。
ただ、物語のテーマをミスリードしてしまうという点では確かにこの作品には問題があるのかもしれません。
タイプD 設定が弱い
これは確かに言えることだと思います。
義務の有意性や、社会批判を交えた意味が薄いよう感じます。
まあ、物語が壮大すぎて描ききれなかったのだと思います。
でも、他に類を見ない作品であることは確かですし、結局、理不尽な社会での“強く生きる少女”というこの作品のテーマはちゃんと描かれていたので問題はないかと思います。
タイプE ご都合主義すぎる
なら、あんたはこの世のすべての創作物をやるな!
物語である以上はある程度オチをつけなければならないわけで、それがバッドエンドだったら良かったのか?いや、それだったら面白くないだけで物語としての価値を大きく失ってしまうと考えられる。
バッドエンドは「車輪の国、悠久の少年少女」であり、それがあったからこそ、ハッピーエンドが得られたのだということを理解して欲しい。
ただ、「車輪の国、悠久の少年少女」をやらなければ、「ご都合主義すぎる」ということの解消にならないのは確かに問題があります。
といった感じで批判を批評してみました。
結局は「車輪の国、向日葵の少女」だけでは少し問題があるということは認めますが、それでもあまたのPCゲームの中でもここまでよく伏線ができている作品は少ないですし、たくさんの批判があるということは何かしら言いたいことがあったというわけで、作品自体に興味をもった人が多かったということです。
だから、やってみて合わなかったら仕方ない。面白かったらそれでいい。ゲームってそんなもんじゃないですか?