梅雨時期の初夏の百合ゲー……実に超王道の百合物語でございました。基本的にめんどくさい少女たちが疑心暗鬼して探り合いするっていうプロットですが、そんなギスギス感もやがては少女たちのお互いを信じようという純朴な心持ちが爽快感となって、鎌倉の海辺での告白の尊さですよ。これが百合ですよ。ありがてぇ、ありがてぇ。弥勒菩薩は56億7000万年後ではなく、ついさっき御来光せられた……(仏教はこの作品にはございません)
自分は百合ゲー、百合漫画、そして百合文化が好きです。
その中でも最も好きというか、「百合の王道」と考えているのが、静けさの中にエモーショナルな文芸感をたたえた作風の百合です。
もちろん百合作品には様々ございまして。
アッパーテンション・イチャラブな作風であったり、陰鬱ミステリ系であったり。
またはジェンダーを巡って厳しく思考する作風や、たんなる日常系のきゃっきゃうふふであったり。
ひとくちに百合といっても、いろいろな百合作品があり、世界観、希求するそれぞれの精神性があります。
そのどれもに触れ、百合文化を愛している前提で……。
……やはり、自分が一番愛しているのは、しずしずと日常が進んでいきながらも、四季折々の情景に、少女たちの繊細な心情を託す、「文芸」としての百合ノベルゲーム……です。
そんな自分からしたら、本作「ツユチル・レター」は、まさに王道の百合を味合わせてくれてありがたい、有難し……!と思っている作品です。
とはいいつつも、ここ最近、自分も百合者としての功夫を積むのを、大いにサボっていたのも事実です。
ガルパンも第3章まで来て安定してきたなー、なら継続高校のカプに新しい無口系魔女が入ってきても、いかようにもカプ展開出来るだろう、とか安定感の目で見てしまっている……。
あるいは、大体自分が好みそうな題材で百合んゆりんしている作品は、百合姫かきらら系萌え四コマ/ジェネリックきらら系、あるいはweb漫画をざっくり眺めれば見つかるだろう、みたいにタカをくくるようになってきてもいました。
お前は百合の「冬の時代」を忘れたのかッ!
一句「いつまでも あると思うな 百合姫きらら」!
……と言われたらまことに言葉を返せません。幾花にいろ「あんじゅう」同棲ものとして凄いっすね、と言ったところで「誰もが知っとるわ!」って話です。
ちくしょう、雪子「ふたりべや」を毎週web連載追ってるのによぅ。マンネリ? あのイチャラブ同棲四コマはマンネリだから良いんだろうが……。
しかし、百合、オタ世間において、着実に存在感を占めましたね。十年来の百合者として、自分はこういう百合業界の情勢を「良かった……良かった……!」と思っております。文芸、漫画、実写化、アニメ、サウンドドラマ、ノベルゲー……どの分野でも、百合の存在感があります。
これ以上求めるべくはない……と。
しかし、さて、ここで話が最初に戻ってきます。
「お前は、今、百合を楽しんでいるのか?」
そう、世間がどうこうではない。自分が自分として、百合カプの部屋の観葉植物として、愛しき尊い百合カプを観測し、萌えているのか?
オタとして本当にするべき話は、そこなのです。
そして、自分は、確かに百合観測をサボっておりました。
そんな中、twitterの個人タイムラインを外から見ていたら(非ログイン状態。DMレス以外でSNSの中に入らないようにしていまして……)、たまたまこの作品を知りました。ありがとうございますmerunoniaさん。(私信)
百合ゲー、ひいてはノベルゲーをサボっていた自分ですが、この短編百合作品ならイケるかも……と思い、プレイをはじめてみましたら……
---だって信じることは間抜けなゲームと
何度言い聞かせたか 迷いの中で
スピッツ「あじさい通り」
この作品に登場するメインカプ、海琴と汐里は、ふたりとも揃って、「なかなか相手にアタックしない」ところがあります。
もちろん、この作品は「海琴は汐里に付き合わなくてはならない、さもなくば結海(妹)を……」という脅迫状からはじまっております。
だから海琴は汐里に対して、警戒心をハナから露わにしています。
汐里も汐里で、「なんで海琴先輩が自分を!?」という脈絡のなさから始まっているものですから、どう相手に踏み込んでいったらいいのかわからない。
お互い、信頼度が「0~それ以下」から始まっている恋愛です。
それでもこの作品の話運びが「停滞」していない、と思えるのは、ひとつは確かにミステリ的な脅迫状の謎解きにあります。
しかしそれ以上に、二人の「信じていいのか、恋していいのか?」の振り子がひゅいんひゅいん右左に振れまくっているからなのですね。
例えば海琴が「汐里は悪人ではない」と断定するところから、「汐里LOVE」に行くのはもう一直線ですが、ここで海琴の感情の振り子がヒュイーッ!と振り切れていったのは、プレイヤーが皆観測したところだと思うのです。
そうなってくると、感情の振り子の動きが、もはや少女たちに制御できるものでなくなってくるのです。
すばらしいですね。進んで相手にアタックしない少女たち、とは、即ち「自分のペースを守って生きていこう」とする、悪い意味での保守的傾向がある少女たちでした。
それが、相手を知りたいと願う恋心ですよ。
自らの殻や保守精神はかなぐり捨て、
夕日の潮騒でお互いが鋭く交差しあい、
心情の爆発、
エモーショナルな対話、
そして……
……そしてですよ!
告白!
これですよ!
これが百合という物語じゃないですか!
潮騒に包まれて、彼女らはもはや迷いはない。
お互いへの信頼は愛となり……告白以降の後半部にイチャラブデートシーンをしっかり盛り込んでいるスタッフ陣に自分は拍手ですよ!
こういう2020年代の気配りは実にありがたい! イチャラブ派の甘党百合者もここではおひねりを舞台にぶっこむ他はないでしょう。
ところで、このふたり、海琴は一見攻の立ち位置、タチ的精神性&容貌です。
じゃあ海琴が汐里を攻略していくのか?という話ですが、さにあらず。
プレイしてお分かりのとおり、実際は受/ネコっぽく見える汐里が、自分の純朴さだけで海琴を完膚なきまでに「攻略」してしまっているのだから百合物語は面白い。
傍目から見たら海琴がリードしているように見える(作中でも、プレイヤーから見た画面的にも)のですが、精神的には汐里がしっかと海琴を愛し、とろけさせている。
(あ”ー、そんな清らかな関係性に「誘い受け」って用語使いたくねぇなぁ)
汐里は汐里で海琴を受け入れ、海琴もまた汐里に「知らなかった情景」を見せる。
お互いが閉じこもっていたこれまでの世界は、あっけなく膜が破れ、二人の信頼感がある限りどこまでもやっていけるんだ、という爽快感を感じさせます。
「信じることは間抜けなゲーム」とスピッツ草野マサムネは「あじさい通り」で歌っております。
海琴と汐里は、学校から帰宅する最中でのあじさいが咲く通りで、何度問答したでしょう。
そこでの会話が発端となり、何度江ノ電車内&電車ドアですれ違ったでしょう。
そのどれもが、ささいなすれ違いから生まれたものですから、まさに信じることは間抜けなゲームかもしれません。
しかし、少し言葉を補うとしたら、この作品の力点は「信じようとする」ことの間抜けさと尊さにあるのです。
---それはおそらく、この頃の文通があったからこそだと思う。
じっくり時間をかけて、お互いの関係を築けたのだ。手紙だったのもよかったろう。
すぐに口にするのではなく、いったん相手の思いを心に留めて、そして自分が伝えたいことを言葉を吟味して書きつける。
手紙は心と心の交流なのだ。
和嶋慎治(人間椅子)『屈折くん』
↑この文章は、ハードロックバンド「人間椅子」のギターヴォーカル・和嶋の自伝『屈折くん』から引用しています。
同じく人間椅子のベースヴォーカル・鈴木研一との、中学校から50代の今のバンド生活に至るまでの友情は、昔の文通にあったのだ、という話です。
もし、校内で普通にSNSを使用するような作品世界では、この「ツユチル・レター」という作品は存在出来ませんでした。
SNSがあったら、単純でめんどくらしい現代的地獄が現出されただけでしょう。
SNSも善し悪し……そのあたりを、この作品は「女子高の校則だから」という力業で封殺してしまったのですね。
これは大英断です。なんてったって、こりゃあ我々の「女子高幻想」を逆手に(人質に)とられているのですからね。
もしこれを責めたところで、「じゃああなた方も何かひとつ、女子高に対する幻想を差し出しなさい」と返されたら、こちらは無言になる他あるとでもいうのですか。
手紙……お互いの心情を、即座に伝えるのでなく、一度心の中にきちんと据えて、きちんと自分の頭で考える。
そして言葉を吟味して、相手の少女に伝える。
これ以上の誤解なきよう、そして願わくば「これからの善き生活」につながるよう。
そういういじましさがこの「手紙」からは見えてくるじゃないですか。
さて。
反面、そういういじましさ、純朴さとは遠い、陰湿な「女」のしがらみが非常に多いのが、これまた女子高の閉塞感であります。
(ちなみに、そういう女子高の陰湿閉塞感と正面からがっぷり組んで、陰湿な中に咲く百合の花の清らかさ、というのを最初から狙ったダーク百合も素晴らしい百合物語である、と補助線を引きながら……)
今回の「ツユチル・レター」(第1話?)で、いじめ問題などの描写(可能性)を限りなくオミットしていったのは、作風の清らかさを表現する上で良判断だったと思いますが、しかし一方で「都合よくないか?」と見えるのかもしれません。
そのあたりは、この作品はどうやら続き物らしいので、次回以降、ぐっと陰湿ダークになる可能性もないではないです。
とはいえ、まず最初に海琴と汐里の、ぎこちないながらも爽やかな百合恋愛、百合カプを持ってきてくれたという点を評価しないわけにはいかない……!
最初にそれがあると無いとでは、作品世界(世界観)に注げる愛というものが段違いです。
自分は海琴と汐里というキャラ、そしてその周囲の人々に好感を抱いております。
どうもハラに一物ありそうな妹・結海であっても、自分はこのお嬢を知りたく思っています。
だってよう、自分がこのゲームをプレイして一番最初に胸がドキっとしたというか、心臓がぐいっと物理的にハネたのは、結海の膝に海琴がしなだれかかる絵のシーンなんですよ。
あのシーン、もはや宗教画じゃないかと思ったね。サラりと海琴の髪を、聖なる微笑みで掬う妹・結海。姉を見つめる瞳は、共依存を予感させながらも、しかし光に満ちた姉妹少女像の尊さに、凡夫たる自分の心臓はハネたね。
ところで、自分は餓鬼の時分に鎌倉に旅行をしにいったことがございまして。
海の近く、江ノ電、歩ける範囲の規模な小さい町。しかしその小ささが逆に風情と深さを感じさせる良い町でした。
大仏、寺。このゲームをプレイしていて、懐かしさを感じてしまいました。昨今の豪雨災害で、大丈夫でしょうか……。
そんな舞台なので、この作品は穏やかに時間が流れていきます。BGMもそんな感じです。POPでGOGO!な感じではございません。
梅雨の時期のしっとりしたゲームプレイ感覚。
でもじめっとしたのはあくまで女性の心情の方で、作品舞台に流れる風は、少女たちの繊細な美しさと相まって、透明感、清潔感があります。
さきほど「迷い」の舞台みたいな感じで下校のアジサイの道や、江ノ電といった舞台を書きました。しかしこれらもまた、美しいのです。
「こういう情景の作品なんだな」とすっと理解が出来る。まさに世界観です。
そこから、告白シーンでありデートの場面でもある潮騒の海辺の解放感&「許し」の感覚がまた良いのですよ……。
まぁたしかに、一抹の影というか、はぴはぴサマーにはなり切れない作風であります。
そこを指して「地味」と言われる向きもあるかもしれない。
自分はそれを「短編百合ゲーの誠実さ」ととらえてやまないのですが、「地味」と仰る方々の気持ちもそれ相応にわかる……。
それにしても、この作品の人たち(キャラ)は、みんな「申し訳ない」という心情を抱えていますね。
メインカプ二人にしても、結海にしても。他のキャラも、掘ればどんどん「申し訳ない」という心情がボロボロ出てきそうだ。
この「申し訳ない」があるからこそ、皆誠実なキャラとして描かれるわけですが……一方、この「申し訳ない」っていう心情は、エゴでもあって。
「相手のためを思って……」っていう図式で動くキャラが多いんですが、それは往々「ひとりよがりだよ」っていうパターンになっています。新聞部・凪紗はそれを見抜いていました。
おそらくこういう「ひとりよがりの申し訳なさ」っていうのは、作中に流れる「女」の流儀……海琴が嫌う「同調性・相互監視・陰湿さ」が、妙に変化して出来ちまうものなのかな、って思ったりもします。あんま考えたくない話題ですが。
しかしそれを言ったら、このゲームは爽やかに描いていますが、あんま考えたくない「陰湿さ」から出来上がった、百合の花の美しさなわけです。
あらゆるコインには両面がある、という言葉があります。このゲームでは「手紙で思いを伝えあう」のが善、としていますが、しかしあの「脅迫状」もまた立派な「手紙」の一形態なのです。
彼女らの美点は、もしかしたら欠点かもしれません。海琴の独立独歩な美点は、他人に上手く甘えられない(しかも彼女は真に甘えるのを希求している!)点ですし。汐里の控えめで尽くす点は、親御さんとの距離感から生まれた「何とかして認められたい」思いでもありますし。
あらゆるコインにはかように両面があって……でも、そのどちらかひとつだけで「良し」とはしない、のが、この作品が持つテーマだと思います。
彼女は偶像(アイドル)ではなく、彼女は崇拝すべき者でもない。
両面を持ったひとりの人間を、愛していきたい。これからも、いろんな面が見えてくるのだけれども、そういうのを含めて愛していきたい。
イチャラブデートシーンからはそういった心持ちも、うっすら読み取れます。
決して派手な作品ではありません。タイトル通り、しっとりした作品です。
しかし、陰鬱になりきることなく、プレイ感はとても良いものでした。ありがとうございました。