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残響さんの恋春アドレセンスの長文感想

ユーザー
残響
ゲーム
恋春アドレセンス
ブランド
Eclair
得点
88
参照数
1988

一言コメント

バカどもが織り成すバカなお話! 食いしん坊幼馴染は淡々と饅頭を食い、淫妹は主人公の未来を奪おうとし、デブは相変わらずデブであり、姉は相変わらず鬼である。我らが主人公は後輩やオバケの尻を枕にしてぐーたら生活を試みるが、そんなバカ主人公に惚れたバカどもの未来はいかに!?あと、作品のブロック構造的シナリオが、妙に作品アトモスフィアとハマった稀有な一作でありました。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

●前置き

思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。われわれはより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深きところには、また無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
(中略)
思うにこの類の書物は少なくとも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭溢なる趣味をもちて他人に強いんとするは、無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかるところを見てきて候、これを人に語りたがる者はたしてありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は、少なくとも自分の友人の中にはあることなし。
――柳田國男「遠野物語 初版序文」(原文の旧字体・仮名遣いはてけとーに筆者が下しております)


アホなゲームをプレイしてしまったと思っております。この「恋春アドレセンス」。
そして、何をば冒頭から、日本民俗学の祖・柳田爺の名著を引用しているか。これは「水月」のレビューじゃないんだぞ、っと。
ですが、ここにある
「無数の伝説あるべし」「これを語りて平地人を戦慄せしめよ」「(この物語に触れて)黙っとるような人はいねえ」
の文句は、このB級ゲーを前にしたら、ことごとく首肯してしまうものなのです。

世の中には、もっとプレイしたら「ためになる」ゲームは山ほどあります。○戸とか。
そんななか、あえてこのゲームをプレイするような同輩は、きっと暇をもてあました有閑貴族か、アレなゲームがやたらと好きなB級スキーか、その両方か。

まずはじめに、このゲームを取り巻く状況について、ざっとの状況分析をしてみましょう。
このゲームは、新興メーカ「Eclair」(えくれーる)の処女作です。しかもスタッフは、最後のスタッフロールを見ればわかるように、ほとんど原画・ライター、音楽、他数名、という、同人サークルかっちゅうほどのドメスティック体制。
んでもって、当然ながら、話題性というものはありませんでした。
だってさあ、HPみてごらんさいな。「いたって普通の萌えゲー」としか受け取れない。
「よくある萌えゲー」
ただまあ、いくつかの点において、「テン年代ふうのバージョンアップがされた、ふつうの萌えゲー」
と、識者には見受けられると思うのです。

露骨な話をすれば、乳袋。
原色まっかっかの紅い制服にあるは、両の双球。パイですよパイ。まるまるとした。
いやー、最近これ、増えましたね。そりゃあもう、その起源を探っていったら、あのクロシェットたるメーカが脳裏に浮かんでくるわけなんですが。
このテン年代に入って、この「露骨傾向」というのは、どんどん加速していっているように思えます。その代表格がまどそふとでしょうか。
露骨にキャッチー、露骨に肉感的。そしてそれを前提として、それぞれのメーカのグラフィック的「味」を出す。そのような方程式が出ているように思えます。
このゲーム自体も、ほとんどが「巨乳」「まるまるとしたおっぱい」です。志賀直哉だったら「豊作だ!豊作だ!」と表現するようなおっぱいです(マジで。「暗夜航路」参照)
それは、もう業界の……純愛・陵辱ともに、デファクトスタンダードとなってしまったんですな。e-moteがデフォとなるよりも「おっぱい」がデフォになろうとはね。まあ……エロゲー、か……。(ド納得)

まあこの議論においては、乳袋のよしあしを決めることではありません。が、この新興メーカが、そのような「業界の動向」に無関係ではなかった、というひとつの証左となるでしょう。

もうひとつ「テン年代ふうバージョンアップ」の例をあげれば、「カレンダーシステム」。
このゲームには、いわゆる形での「好感度フラグ選択肢」というものはありません。
あるのは「カレンダー」で、プレイヤーはそのカレンダーに記されている、いくつかのイベント……「大きなシナリオの流れ」から見たら、「ブロック分割」されている、ともみうけられる、各キャラのイベントを選択していきます。
で、これに好感度が左右しない、というのはどういうことか。
簡単に示しますと、仮にカレンダーにこのように記されていたとします。イベントが。

・叶衣「おまんじゅうに押しつぶされるよう!」
・淫妹「私のおまんじゅうを食べる?(性的な意味で)」
・後輩「センパイ私のおまんじゅう食べましたね!」

まあこれは適当にでっちあげた例でして、実はこんなに「各イベントが有機的に結び合って」すらいないのですが。
で、ふつうのエロゲ・ギャルゲだったら、・「叶衣」を選んだら、ポイント一つ稼いだぜ!ゲットだぜ! あとあとルートに入れるぜ! って感じになるのですが、このゲームの場合、「文化祭で、最終的にヒロインを選ぶ」までの選択肢は、どれを選んでも、ポイントが稼がれないのです。プラスにもマイナスにもならない。文化祭までの期間、他のヒロインを選んだことによるバッドなこと、というのは皆無です。嫉妬イベントすらない。

これが、「カレンダーシステム」のざっとした概略です。ようするに、いわゆる「ゲーム性」というものが、非常に薄い。
どのイベントを選ぼうが、どのヒロインで貫こうが、イベントを浮気しまくろうが、最終的には「どのヒロインのルートに入りますか?」という、あたかもC:Drive系の「ヒロイン決めドンズバ!」みたいな、すげえ攻略難易度的には「らくらく!」なシステムになっているのです。

このシステムを「ゆとり向けシステム」と切ってしまうことは容易です。だって「好感度フラグたて」を考えなくてすむのですから。落とし神/神にーさま(@神のみぞ知るセカイ)涙目だぜ!

「じゃあゲームとして面白くないのか?」
まさか。それだったら、柳田爺を引用して「平地人を戦慄せしめよ!」と獅子吼を放ちませんわな、わたしも。


前者の「乳袋ムーヴメントに乗っかった形のゲーム制作・広報展開」という面では、正直このゲームは失敗したかな、という感じがあります。同時期に「ヤキモチストリーム」があったら、乳袋心酔者はそっち行くでしょう。
ですが、このゲームの……そう、体験版。
これを一発やってしまった、好き者たちは、こぞって「このゲームはヤベえぞ!」と口を揃えていいました。少なくともわたしの周りでは。

後者の「カレンダーシステム」が、奇妙に生かされた、テキスト……というか、キャラというか、バカどものバカなかけあい、というか。
正直、絵はトップランカーというわけでもないですし、演出も凡。
しかし、このテキストと、分割されたブロックシステム(カレンダーシステム)と、キャラとが、奇妙にミックスされた「独特の味」が、このゲームの真髄なのではないか、と僕は思います。

では、まず「カレンダーシステム」(分割されたブロックシナリオ)が、このゲームをいかにカオティックに彩っているか、物語・文学論を軽くまじえながら、説明していきます。その後に、各キャラ・ルートの感想にいきたいと思います。


●物語/システム論 ~エピックとリリック、キミが見つけたぬるぬる混沌物語~

ぶっちゃけ、このゲームをプレイしていて、最後に思ったのが、
「なんだかこのゲーム、『聊斎志異」みたいなゲームだったな……」
ということです。

「聊斎志異(りょうさいしい)」とは、中国・清の時代に蒲松齢が、民間伝承から取材した、珍妙な物語・化け物ストーリーを集めに集めたものです。まあある意味で、中国の民俗学ともいってさしつかえないかもしれません。
で、萌えゲーに対して、聊斎志異呼ばわりするのもいかがか、と思うのですが(ほとんどキャラをゲテモノといっているに等しいから)、……だってさ、このゲームのキャラ、まともな奴がいねえんだもの!

ツッコミ役の不在、ということで話しを片付けたら、どんなに楽だったことか。
ちょっと軽く分類してみますか

・主人公:アホなくらい調子にのる
・幼馴染:いつでも、まんじゅう食ってるだけののんびり屋。しかし結婚でもって迫る
・先輩:いつでも、デブを気にする調子者。フランクな感じになろうとして、結果落ち着きがない。
・実妹:いつでも、卑猥な言葉で兄の貞操を奪おうとする
・後輩:たぶんこいつがマトモな奴なんだろうが、結果なんだかんだで調子のる
・オバケ:バカ
・女友達(親友ポジ1):どこまでも調子のる、やかましい女
・実姉:悪の大魔王
・先輩2(親友ポジ2):ウィスパーボイスで卑猥なことばっかり言うバイセクシャル

……かる~い分類なんだけどな。まあ「後輩」がなんだかんだでツッコミが多くなるのですが、こいつもボケるので、結果他のバカどもがフォローする形でツッコミを入れるハメになったり……
まあようするに、「極端なまでにボケキャラが多い」「ボケ倒しのシナリオ」ということです。
かてて加えて、下ネタばっかり、というのも。妹が兄のパンツを食うのは当たり前で、妹が兄の汗や精液を舐めるのが日常シーンであるくらいだから、何をかいわんや、であります。

ああ、こんなことを考えてきたら、よけいにこのゲームが聊斎志異に見えてきた。今適当に岩波文庫版のこの本開いてみたら「二人妻」とかいうオバケを交えた三角関係の話がでてきたんで、よけいに妙なシンクロになってしまった。このゲーム、根本思想が大してゲテモノストーリー集とかわらねえ!w

……ところで。
遠野物語にしても、聊斎志異にしても、どっちも「採集した短いストーリーの集積」というものでありますが、これは考えてみれば、極めて「カレンダーシステム」と類似性がある。
どういうことか。
前述したように、共通ルートにおける各イベントは、どれも重要度でいったら「並列」です。なんてったって好感度システムがないのだから。
ということは、どれを選んでもよく、同時にどれを選ばなくてもよい。
それは、「このゲームの本筋たる物語は、キミが作っていいんだよ」という暗黙のメッセージと……受け取れんこともない……?

ここでひとつの考え方を導入しましょう。ひとつひとつのシーンを、時系列的に積み重ねていき、その過程において主人公とヒロインが成長する、成長物語(ビルディングス・ロマン)を、
「直線型エピック(叙事詩)的物語」と呼ぶことにします。
それに対し、この恋春アドレセンス=カレンダーシステム的、各イベントが並列で起こっていって、どこまでも「物語のクレッシェンド的ドラマツルギー」を否定する、アンチ成長物語を、
「日常系リリック(抒情詩)的物語」と呼ぶことにします。

このように対立する形で考察してみると、この恋春アドレセンス……そう、アドレセンス(思春期)を取り扱ったゲームだというのに、ここには「成長」がない、といえる。
言葉を厳密に拾っていけば、いくらかの「変化」はあるのですが、直線的・重層的に、さまざまな青春のあれこれを積み重ねていって、ひとかたの大人(青年)になる物語……では、ない。このゲームは。
そう、言い換えれば、この物語は、艱難辛苦の果てに「何かを勝ち取る!」というゲームではないのです。
前述したように、このゲームは○戸ゲーのように「ためになる」ゲームではないです。あそこにある「何かを犠牲のもとに勝ち取る!」という悲壮な覚悟は、どこまでいってもこのゲームにはありません。
では、彼ら……主人公とヒロインたち……いや、一春くんとバカどもは、何を得たのでしょうか。

個人的に彼らがこの「一年」――そう、このゲームは昨今珍しい、「1季節」を描くものではなく、「一年まるまる」を描くものであります――で得たものは、ただ単に「時間が流れていった」ということに過ぎないのではないか、と考えます。
そこには何らの絶望もなく、何らの障害もなく、ただ淡々と、アホなかけあいと共に、アホな日常が延々と過ぎていった、ということ。
事実性だけを取り出してみれば、そのようなことであります。遠野物語や聊斎志異が、「変なsomething(アレコレ)」を、各エピソードのなかに持っていながらも、基本的には「その地に住まう人間たちの奇妙な日常系リリック的物語」であったことと同じように。

先ほど定義した「日常系リリック的物語」においては……まあ話をあまりに一般化するのも問題ですが、わたしがここで「リリック(抒情詩)」を持ち出したのは、リリックにおいて「成長」「段階性」「積み重ね」というものは、必ずしも必要ではない、ということです。
リリックにおいて必要なのは、むしろセンス・オブ・ワンダー。小さな日常のアレコレから、小さな美を見出す詩人的ソウルの問題なのです。そしてそのリリックの美の種は、延々と続く「日常」という土壌に、いくつも芽吹いている。

勘のいいひとは、ここでいくつかの疑問を呈されることと思います。
「直線型の物語を志向しないということは、すなわちこの物語の構造、ないし目指すところは「円環」なのだな?」
とか、
「その「時間が流れていった」とは、ほとんどゾラ的な自然主義文学……「そこにそのように自然そのままがあることを活写する」メソッドとほぼ同一なのではないか?」
とか。
そして、
「では、「キミが見出す物語の骨格」とは、具体的になんなのか?」

問いに答えていきます。
まず第一に、「直線型志向を否定するところは、すなわち円環を志向する」ということですが、これは、ほとんどの「日常系リリック的」物語においては「あったりー☆」と大正解の理論であります。
ところが、ことこの恋春アドレセンスにおいては、「50点」の回答でしかありません。
半分は合っている、というのは、作品全体、あるいはキャラたちが「この日常を愛していて、これからもこの日常を続けていこう、遊んでいこう!」というメッセージが、作品を通してプレイすれば……いや、それは共通ルートの半分くらいをプレイすれば、アトモスフィア(雰囲気)的に感づくものだからです。
もっとも、最終的な意味合い……柊ルートにおける意味合いでは、「円環を志向する」と考えると、結構趣き深いものであるのですが……あのルートは、それこそ「ずっと遊んでいよう!」という心持の証左であるリリカルさでありますから。(先走り。どぴゅっ)

残り半分に「正解!」を与えることができないのは、「どうもこのバカどもが、そういった大層なことを真剣に考えているように見えない」からです。
ある命題が、そのキャラ自身における自覚性でもって、そのキャラの思考の真実性を語るのも、また片手落ちの議論でありますが、これは第二の疑問に答えることで、ある程度解決されるものだと思います。
ゾラ的な自然主義的メソッド……簡単にいえば、「日常は、人生は厳しいものである。その原則を物語るのだったら、とことんまでリアリズムに徹して、ファンタジーを入れないことこそが、文学の命題である」とする立場ですね。かいつまんでいえば。
で、この自然主義的メソッドは、こと日本においては「季節の移り変わりや、自然そのものを、そのまま「写生」することが、美である」というふうに、転化していった文学史があります。

ことこのゲームにおいては、キャラの「略歴」とか、キャラが行動に至る「理由」などといったものが描かれません。
どういうことか。このエロスケにおいて、各レビュアーの皆様がそれを指摘されているのです。例えば、

>最初から主人公とどのヒロインがくっついてもおかしくない距離感なので、恋が生まれるまでの甘酸っぱい過程は少なく、何処で一押しするかというレベルなのである。
彼女を作る理由もカミ姉に脅されたからと言う情けない理由であり、主人公の主体性は何処行ったのだと。
(ひきにく氏の感想)
http://erogamescape.ddo.jp/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=20594&uid=%E3%81%B2%E3%81%8D%E3%81%AB%E3%81%8F


・バカゲーなため、深い設定はありません。どうして妹はそこまでお兄ちゃん大好きなのか、幼馴染は主人公大好きなのか、そこまで深い過去理由はありません。 お化けはなぜ実体化してるのか、深い理由はありません。 
ですのでそういうことを気にしてしまう人は合わないかもしれません。 頭を空っぽにして「なんだそりゃwww」と楽しむエロゲです。
(merunonia氏の感想)
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=20594&uid=merunonia


そう、この作品において、「この作品の前におこった様々なる物語」は、全然描写されないのです。あったとしても、極めてどーでもいい話……春休みとくに何もなかったのは、一春くんがはしゃいで足の小指を骨折したから、とか、泉(女友人)が入学から今まで乳が膨らまなかったとか……。
そこらの「なんでこのひとたち、こんなに仲いいの?」の理由、解説というものは、ぜーーーんぜん、語られないのです。語られるかと思ったら、予想以上にどーーーーでもいい内容なので、「ああ、深く追求したら負けだわ」とするのがこのゲームです。

ふつうのゲームだったら、例えば「このヒロインがツンデレになった理由」みたいな感じで、モノローグや回想が入るじゃないですか。ところがこのゲームだったら、とにかくちょっとした小話で終わらせてしまう。
まるで過度の文脈を、キャラに与えようとしないかのように。

つまりこの作品は、「一春くんと愉快な仲間達」の日常を、ただ「そっくりそのまま描いた」だけのものなのです。
それを自然主義と呼ぶことも可能ですが、それもそれで、片手落ちの表現かもしれません。
なぜなら、このキャラたちは、「人間性の正直な代弁者」といった大層なもんじゃないのです。自然主義は「人間の偉大さ」を描きますが、恋春アドレセンスは「人間のバカさ」を描いてやまないっ!

……とはいうものの。
この作品をやっていて、妙な情感(リリカルセンス)を感じてしまうのも事実なのであります。
それは例えば大晦日のじわじわくる独特の盛り上がりであったり、夏の旅行でのしみじみした二人っきりの花火であったり……
「道具立て」「情景」としては、チープなものかもしれません。そこに、大どんでん返しのトリックがあるわけでも、伏線が張られているわけでもないです。
なのに、妙に、クる。気づけば、作中世界……あずま荘を中心とした、この町に浸っている自分がいる。

「季節の移り変わりや、自然そのものを、そのまま「写生」することが、美である」
という、日本的自然主義の文脈ですが、ことこの作品においては、それは「是」とされる考えなのでしょう。
まあ
「作中のバカどもをどこまでも正直に活写することも、またギャグである」
と言い換えてもいいのですが。
それをいかに感じ取ることができるか。そこに「日常系リリック的物語」の面白みがあり……この手のゲームが好きではないひとは、「退屈!」の一言で断罪するのかもしれませんが。

さて話を戻しますが、「理由」「歴史」が描かれない物語、というのは、説得力に欠ける、と言われるかもしれません。
そうです。この物語には、大して説得力なんてありはしません。
ですが、それだけでこの恋春アドレセンスを凡作と片付けるのは、(ギャグのキレが肌に合わない、ということだったらまだしも)この物語に「直線的にキャラが成長していくことを良しとする感覚」が、あらかじめユーザの側にあるからじゃないか、という感じがします。
むしろ、逆なのです。さまざまな小ネタを拾っていって、その小ネタを各イベントのなかで「ポイント」として覚えておく。そしてその各イベントが、一つの季節のなかでどういう位置を占めているか、ということを「こっちが妄想する」。そして、各季節が、一年のなかでどういう位置を占めているか、ということを「こっちが妄想する」。

まさにキャラゲーであります。
ようは、向こう(Eclair)側は、全然「大きな流れの物語」を、ユーザ側に押し付けていないのです。「この物語は円環構造を持ったテーマ性ですよ」ということすら、押し付けません。
すべて……物語のアトモスフィアはこっちで用意する。あとは、ユーザが自由にたのしんでね!
そんな感じです。

まるでそれは、箱庭療法にも似たものです。
シルバニアファミリーに狂った人格が付与されたもん、といったらある程度話しは通じるでしょうか。
あるお家(あずま荘)の中で、延々と狂ったキャラたちが、狂った会話を繰り広げる、箱庭。
イベントの各配列に、発展性はなく、ただただ並列的に、キャラたちがキャッキャウフフするだけ。
――そう、わたしが「キミが見出す物語」と、キモい言い方をしたのは、ここです。箱庭は、自分なりに遊んでこそ意味がある。
この物語の「骨格」「背後にある大きな流れの物語」もまた、自分で見出してこそ意味がある。

ここまでくると、この「カレンダーシステム」というものが、以外なほど「ゲーム性豊か」といえます。
それは、我ら「妄想スキー」にとって、格別のゲーム性なのです。
なぜか。
それは、いつでもイベントを見返して、自分なりにそのイベントでもって「脳内で遊ぶ」ことができる。
分割されたエピソードは、分割されているだけに……あたかも葉鍵ゲー全盛期のSS(サイドストーリー、ショートストーリー)文化のように、「各萌えエピソード」を自由自在に取り扱うことができる。脳内でもだえてセックルするには十分だぜっ! 当然ギャグもあるので、退屈しないよ!

日常系リリック物語にとっては、「ドラマツルギー」など邪魔者なのです。
あるのは延々とした、バカで心休まる掛け合いのみ。それでいいのです。
そこから、無限の萌えと、ちょっとだけいい話、を汲み取れれば……センス・オブ・ワンダーでもって汲み取れれば、それでいいのです。
まあ、基本的にぬるぬるしてるんだけどな! キャラたちのかわいい嫉妬と、淫妹のしめったお股でもって!(だいなし)


●各キャラのルート、簡易感想

さて、胡乱な文学談義がすげー長くなってきてしまって、自分でもどうかと思うので、こっからはサクサクいきます!

・叶衣ルート
……はて、このルートのどこに「恋愛」があったのだろうか?
よしんばそれを「共通ルートで、叶衣さんはすでに幸せだったのだよぅ」と、先の「日常系リリック的物語」の楽しみ方でもって語ってもいいのですが、それにしたってなぁ。
正直これは「幼馴染シナリオ」というよりは、「やがて子作りに接続するシナリオ」と呼んだほうが適切だったのではあるまいか。

そう、このキャラの「幼馴染臭」がグンバツバリヤバい級であるのに引き換え、シナリオ自体に「幼馴染的にキュンとくる要素」があんまりない、のはどういうことか。
それは、先に述べた「理由を描かない」といったとこにもあるでしょう。
ふつうの萌えゲーだったら……つまるところ、ここが幼馴染のキモになるのです。いかにして過去があり、これからをいかにして生きていくか。
ところが、このゲームは「理由がない」。
……だったら理由を作ってしまえ、という逆転の発想で、「子作り」の通奏低音が流れ始めます。この論理展開すげえな……
いや、「つくるぜ!なかだし!」ってな肉食系じゃないけどね……でも、正直共通ルートのノリとまったく変わらん、というのもすげえ。
いや、すげえ楽しかったけどね!


・後輩ルート

結構尻に敷かれてますね主人公。
それが「告白」のところで、振り回されたとこからすでにはじまっていますが。
ただまあ、これも先の理論を持ち出しますが、「直線的に物語が進んでいない」というこのゲーム独特のシステムが、この告白のくだりで、またいい感じに作用しています。
すべて唐突で、解決も唐突。解決に至るまでも、周りの外野がガヤガヤしてる。
で、このガヤ感というのも、ルート半ばのクリスマスに至るまで、まーだガヤガヤしてる。
普通のゲームだったら、鳴りを潜めるのが他キャラってもんでしょう。
それが、このゲームだったら悪ふざけを、いつになってもやめないガキども……それがあずま荘の面々です。
まあそんな面々を、常識人として、あるいは水さされた恋人として後輩がキレる構造も、また楽し。

・淫妹/カミ姉ルート

恋人なんてなかった。
徹底したギャグルートでした。
いや、「なんでここまでこの妹は兄の貞操を狙う?」という疑問はあったのですが、
それが最後の最後まで全然明かされない。これはこれで、この「理由を描かない」ゲームの弱点をさらけ出してしまったか、ともいえるのですが、……まあこのキャラ自体、強力ですからね。膣圧が、じゃなくて、ねとねと的個性が。
ようは、「恋人としてのイチャイチャ」が、意外なほどなかったルートですた。
むしろ、ウブな感じがまだ強かったのが、大魔王カミ姉だったというのが、意外だぜ!

・デブ莉ちゃんルート

意外に意外、こっちのほうが「正統派いちゃラブ」してたっちゅう。
それも「じらしに焦らす」。
二回も性的行為をやっておいて、入れないのかい!
しかしそれが、万年発情タイプの茉莉ちゃんをさらに輪をかけてバカップル化さすのですから、うーん、逆にプロットがいちゃラブに特化していた、ともいえるかもしれません。結果的かもしれませんが(このゲーム、どこまでが計算どおりで、どこまでが偶然かがわかんねえんだ)

・泉ルート

オマケ。
ですが妙に「その場の勢いに流されて」な感じがしましたが、「その場の勢い」以外にこのキャラの意味ってあったかいな……と考えると納得。
あ、それから、挿入歌でバンドを、泉と一春くんとキューちゃんがやっていたのですが、この音源を聞くと、「多分リズムギター」が泉で、「多分リードギター」が一春くんなんでしょうが、よく聞くと、一春くん、Aメロ、Bメロのあたりでほとんど弾いてませんね。そう考えると。しかしサビでリードをとるとこなんか、一番いいとこもってくギターワークしてますから、卑怯な男やなぁ。

・キューちゃんルート

さらにさらにオマケ。恋愛もなにもない。ただのセックス。
逆に「一応抑えとくか、これで攻略対象じゃなかったらアレだし」的な、「オマケ」感といいますか……

・オバケルート

これも恋人やないやん……恋ってなんなの?という、昔ながらの「アホの子シナリオ」の王道でありながら、結局その場に流されなセックス&ラブ、な感じのシナリオでした。
ただ。
それでも「好き!」の気持ちは本物だったのですね。
ラストが染みました。
「また一緒に遊ぼう!」という約束を、「死後」になって叶える、というシナリオ。すべてのあずま荘の面々を看取ってから、自分の終わり=第二のはじまり、を開始する、という。
それが、青い空に向かっての約束と重なって、青い空に昇天していく演出。いや、演出かどうかは怪しい。一枚絵もなかったのだから。
でも、この妙な開放感と、妙なせつなさ、というのは、きました。
この約束に、なんらのいやらしさも打算もないんですよ。
ただ「遊ぼうよ!」ってなだけなんですし。

……ここで総論をまとめてしまいますが、要するにこの物語は「遊ぼう!」という、ただそれだけのゲームなんです。
ブロック構造も、リリカル的センスも、すべて「子供の遊び」。まあセックスはあるけど……それでもさ。
バカでアホな連中ばかりですが、その「遊ぼう!」という考え……というか精神だけは、いつもいつも子供のまま。

この連中が過ごした一年の季節感が、やたらと妙に染みる……ひしひしと感じられるのは、そのあたりではないでしょうか?
夕焼けが綺麗だった、青空はやたらと高かった。
川の流れはゆったりだった、樹々の青さは生き生きとしていた。
そんな気持ち(センス・オブ・ワンダー)を、いまだに忘れないまま、バカやり続けるバカども。

そんな精神性を心のどっかに抱えたままのゲーム作りなんて、逆に古参メーカ、有名メーカには出来なかったかもなぁ……と、思うわけです。Eclairの処女作に対して。
そう、それがアドレセンス。思春期。すべてが輝いていて、バカやりながら、そのバカさをずっと生きることこそが、最大の目的だった時期。なんのことはない、バカなキャラたちのアドレセンスの輝きでありながら、メーカ自身のバカなアドレセンスの輝きでもあったわけです。このゲームは。


さあ、そういうわけで、「遊んで」みませんか? このバカどもといっしょに。

――五〇 死助の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥の啼く頃、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢の中に漬けておけば紫色になる。ほおづきの実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
柳田國男「遠野物語」