咲耶佳ちゃん咲耶佳ちゃん咲耶佳ちゃん!!咲耶佳(妹)ルートにおけるイチャラブの小悪魔清冽さは、短編エロゲの良質な点を全面に押し出してやまない! 商業じゃやれない企画・内容であると同時に、なんで商業でこのような文芸性豊かなものがやれないんじゃぁ!という憤りを、クソビッチ姉は股間を撫でながら赤ちゃんプレイでよーしよーししてくれるのであった。
「(100kmマラソン大会で)一度歩いたら、二度と走れなくなってしまいそうな気がする」
「ルールを破ったら、この先さらに多くのルールを破ることになるからだ」
「走り続けるのをやめる理由なら大型トラック一杯ぶんはあるけれど、走るための理由は片手の指ほどもないかもしれない」
村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」のサロマ湖100kマラソンの項で、このようなことが書かれていたように記憶しています。
別にルールを厳守することが、人間のあるべき姿、と一律にいうつもりはないですが、「誘惑の決定的ポイント」をすぎてしまったら、ひとはそこから引き返すことはきわめて困難になります。たといどんな理由があっても。
おそらく「誘惑ゲー」において重要なのは、この「誘惑の決定的ポイント」をいかに設定して、いかに描ききるか……崩壊・決壊のポイントのダイナミクスを描くこと。それが一番の重要な点だと思います。おっぱいの量や、愛液の量や、ヒロインの魔性よりも(あるいは魔性は手段のひとつにすぎないのかもしれません)
というのも、この「決定的ポイント」がいつでもよいものだったら、彼(主人公)は、どこで「道を踏み外すか」も、どこで「それでも彼女を選ぶ」かも、やはりいつでもいいものになる……という論理的帰結です。そのハリのなさ……というか実存的いつでもよさ・どうでもよさ、は、やはり彼/彼女の存在やエロスの強度を失わせる方向に向くでしょう。
ああ、堅い話になってしまいました。
本作は、きわめてストイックなコンセプトを持ちながら、男女の心情の機微を丹念に描いてやまない、「まさに短編文芸エロゲ!」な作品を多く送り出すサークル、夜のひつじ、の近作です。
とはいっても、このサークルの作品、わたし、今作品がはじめてなんですがw
しかし、えろすけさんに集まった数々の、夜のひつじ作品のレビューを読むと、そこには熱い……文芸魂とエロス魂の相克が見受けられるレビューが数多くあるのです。
わたし個人の話をすると、えろすけさんでもご健筆をふるう、imotaさんのレビューがきっかけで、この作品を手に取った次第です。
imotaさんはこの作品を見事に要約しながら、この作品に込められた文芸性と、エロス性を解説してみせます。
……しかし、すげえタイトルですよね。某巨大掲示板のヴィップエレキバン……じゃなかった、ほら、vではじまりpで終わる、あの荒くれものどもの巣窟ですよ。あそこの釣りタイトルめいたニオイを醸し出してやみません。
この作品は、さまざまの名言があります。その名言/名シチュ性からimotaさんのレビューは健筆をふるうので、まさによき誘い(いざない)といえましょう。
ちょっと拾ってみれば
--「男の人を背もたれに座って読書したかったんです」
「一度こうして起こしてみたかったんです」
と不器用にはしゃぐ彼女をみてニヤニヤしてしまい、
「なにニヤニヤしてるんですか。気持ち悪いです」
までがワンセット
これはもう「イチャラブエロゲ」と断定してかまわんな第六天魔王ッ!!
この作品はいわゆる「抜きゲー」「誘惑ゲー」に該当するのでしょうが、このセンテンスだけで、クーデレ小悪魔美少女が童貞主人公を先導しながら、しかし少女自身のイチャラブ・ハングリー・ハートを十全に満たすためのタテマエとして、言葉を操っていることが見え見えじゃないですかー。
また主人公も、なかなか童貞にしては、教養を兼ね備えている御仁で、またimotaさんのレビューから引用すれば、
--「なんで無意味なソビエト外交史なんて受講してるんですか」
という問いに、事後になってから話してもいいだろうと思いなおす。
「無意味かもしれないけど、死ぬわけじゃないから」
という台詞を気に入り、すぐに同じように使う彼女
「すぐに同じように使う彼女」!!
このセンテンスだけで、この妹少女……咲耶佳(さやか)ちゃんが、エスプリと教養を瞬時に判断できる聡明さを兼ね備えているとわかるじゃないですか。
そう、この作品は、咲耶佳の頭の良さが前提としてあるものです。
しかしながら彼女は自分でもいうように、
「めんどくさい女」
であります。
正論をかます人間は、往々にして正論に自己が取り囲まれる傾向にあります。
わかりにくいですね。
ようするに、正論を人に対していうからには、自分自身の感情や行動規範も、「正論」でなければならない、という感じのひと、ということです。アーンめんどくせえ!
もちろん、小悪魔でありながら、正論スキーであるこの少女と相対するには(しかもこっちは童貞)理屈で攻めながら、教養で攻めながら、しかしそのめんどくささをある程度「善し」とする度量がこちらに求められるのです。
つまりは理屈イチャラブ……それをめんどくせえ、と思うあなたは……まあ個人の好みですからね。
と、ここまでこのように書きはしましたが、衒学趣味的にエリートっぽくイヤラシク攻めるって感じはないです。ただところどころで「知的に攻める」のが前提としてあるってだけで。
「好きすきー!」
「俺もー!」
というマッシヴ単純なのではなく、エッチの最中に、咲耶佳を気遣う主人公に対し、
咲耶佳「お馬鹿さんですね。大好きです」
主人公「(キュン)」
みたいな、微妙な心理の綾でもってこっちを萌えさせるのです。あとは好みだ。
とくに「お馬鹿さんですね」のボイスのあと、ほぼ1~2秒感覚の絶妙なタイミングで「大好きです」の素直ワードが入ってくる間隔は、すばらしい演技と呼ぶしかない。
誰得な音楽でたとえるならば、ジャズにおける、ビル・エヴァンズの名盤「ワルツ・フォー・デビー」でスコット・ラファロが夢見るような変幻自在のベース・パッセージを奏でながら、エヴァンズが絶妙のタイミングで甘いメロを投下するようなものである。
ようするに小悪魔萌えクラスタは、「お馬鹿さんですね」のツンワードですでに撃沈されているのに加え、絶妙のタイミングで、あまーいあまーい「大好きです」の率直な心情の吐露が加えられるのです。
当然ながらこの一連の話術の前提として、すでにデレきっている咲耶佳、というのがいるのであって、もう殺せ、殺してくれえっ!
さて、咲耶佳の教養、からちょっと話がずれてしまいましたが、この少女、すごく本を読むのです。電子書籍派ですが。
で、ここまで書いておきながら、この物語のあらすじを超ほっぽっといてるわけなんですが、しかしあらすじってもねえ……だいたいほかのレビュアー氏がそれ語ってくれちゃってますし……
まあざっくりいえば、
主人公、木乃花(クソビッチ姉)に誘惑される
↓
主人公、咲耶佳(妹)にいじられる
↓
なんか気が合う主人公と妹
↓
再び木乃花に誘惑される主人公
↓
咲耶佳を選ぶか、木乃花の誘惑に負けるか
って具合なんですけど、修羅場にはなりません。
もともと姉妹、どっちもエロースには独自の基準を持ってるようで……いやもちろん、「ガバ」なのが姉で、「めんどくせえ」のが妹です。ガバっつっても、ダンスミュージックの1ジャンルじゃねえぞ!(わかってるよ)
……ただ、いわゆる「誘惑END」=「非イチャラブエンド」=「バッドエンド?」
の方にいってしまうと(ここまで書くの、ネタバレレビューだからいいよね)、上でかいた、咲耶佳イチャラブは、なりを潜めてしまいます。
とはいいつつも、姉の木乃花が、なぜガバになってしまったのか、についても、直接的な描写もされず……「なんかよくわからないが、心情の理由の一端をかいま見たかもしんない」という、いかにも文芸ではありますが、どこか「?」のまま、物語は終わります。
……いや、それはそれ、だ。
問題は……わたし自身にあるかもしれない。ようするに、咲耶佳ちゃんとのイチャラブが、たいそう居心地よいのです。それに比して、木乃花誘惑ルート(結局3pルート)における「ああ、結局自分は咲耶佳を半ば裏切ってしまったのだ」という、微妙な居心地の悪さが、アレなのかもしれません。
誘惑ゲーでなにいってるんだ、といわれるかもしれませんが、所詮わたくしはイチャラブクラスタなんですよ……SMEEとか保住とか海原とか大好きな奴なんですよ……
それら、イチャラブレジェンドと比較しても、十分以上に戦えるほど……いや、教養を自然に活かしながらも、めんどくささをかわいらしさに昇華さすporori氏の筆致は、すでにレジェンドの域に達していると俺が断言しよう。
で、咲耶佳ちゃんとの知的/めんどくせえイチャラブなんですが。(また話がずれたよ)
主人公・咲耶佳ちゃんとも、本……小説をよく読むのですね。
この作品にでてくる実際の書物は、主に英語圏現代文学……ポール・オースター、カズオ・イシグロとか。それから中島敦(山月記、悟浄歎異)、サリンジャーも小ネタででたな。そもそも咲耶佳・木乃花姉妹も、日本神話のコノハナノサクヤヒメからのもじりですし。
それらはアイテムですが、同時にライター・porori氏の教養を示します……てかですね、どうもこのporori氏の読書履歴が、他人とは思えないw
ちょっと余談(あとで接続しますが)ですが、たぶんこのライターさんは、翻訳文学読むにあたって、村上春樹・柴田元幸によるところが大きいんじゃないかと。
で、その豊かな文学体験を、率直に自己のエロゲに活かしていると思われます。
ざっくり「村上・柴田翻訳文化圏」の傾向をまとめてしまうと、
「文章には品があり、しかしアクチュアル」
「まっとうに進んでいくはずの物語が、どこかズレにズレていく」
「ユーモアを忘れない。ガチガチを回避する」
……といった海外小説の目利きとして、村上・柴田はある、といいきってしまったら暴論ですが、おおむね賛同は得られるはず。
で、このふたりにとって、重要な作家となるのが、オースターもそうなんですが、レイモンド・カーヴァーでして。
リアリズム文芸の旗手たるレイ・カーヴァー。実際、カーヴァー的「どうしようもなくずるずると日常の堕落にひっぱられていく」予感、というのは、この妹「(略)クソビッチ」にもあります。
わたしが咲耶佳ルートの甘さにブラヴォーしつつも、誘惑ルートにどうも顔が苦くなってしまうのは、賛辞と受け取ってほしいのです。
なぜなら、カーヴァー的「男女のどうしようもない関係性・心情に引っ張られて、身動きとれなくなっていく」の感覚が……そのしょうもなさと文芸性の奇妙な融合が、木乃花をめぐる視点のあちこちにあるからです。
でも、「そっち」を選んでしまったら、咲耶佳ちゃんとのイチャラブ……いえ、「愛」「まじりっけなしの愛」は得られないのです。
この作品のシビアなリアリズムはそこにあります。
なんでわたしが、最初に村上春樹のエッセイを引用したか、おわかりですね。
ひとつ、ポイントを決壊さしたら、もう戻れないのです。
咲耶佳ちゃんは、案外、傷つきやすい少女です。
ひと……とくに「男」というものを、信じていいのか、悪いのか、決めかねています。
ここです。
咲耶佳ちゃんの言葉……誘惑ルートで放たれたことばが、案外重いのです。
「やっぱり男の人なんて……」
そこ以降、咲耶佳ルートのイチャラブにおける、お互いを通いあわせる、まじりっけなしの愛というものが、誘惑ルートでは、だんだんと、だんだんと、見えなくなっていくのです。
それを悪墜ち……いや、「女墜ち」と言い換えることも可能です。実際、より早く孕んだのは、咲耶佳だったのですから。
でも。
そんな彼女が、「誘惑に耐えた」主人公に対して、咲耶佳ルートで見せた信頼感は、昨今のほかのイチャラブゲーと比べても、明らかに輝いて……いや、非常に清冽な水のごとく、いい感じな関係性として。年上の彼氏と、年下の彼女としての関係性が、味わい深い!
実際そのあと、咲耶佳ちゃんは、主人公と……たぶん籍を入れたのかな。子供をもうけ、非常に信頼感、多幸感をたたえながら、ひとりの女性として「自立」するのですから。
少女から、女性へと。その羽化は、見事に誘惑ルートにおける「女墜ち」とは対照的に。
モラリスティックな書き方すぎかなー、このレビュー、とかって思うわけですが。
あんまり誘惑ゲーにおいて、モラリスティックな書き方したら、かえって逆効果ですしね。
しかし……逆に誘惑ゲーという、モラル決壊寸前だからこそ、逆説的に「関係の清らかさ」「清らかなイチャラブ」が、意外なとこからひょい、っとでてくることだってあるのです。 今作のイチャラブの甘みは、そのところにもあるのではないでしょうか。