過大評価。バカを勘違いさせるゲーム。"難しそうな単語"を無理やりつなげて格好をつけた文章にしているだけ。衒学的に言葉を羅列することが文学的・哲学的だと勘違いしている意識だけ高いバカに向けたゲーム。引用ばかりで自分の言葉がない。退屈を超えた退屈。絶望的なまでにテンポが悪い。信者の好意的な解釈によって成り立っているだけの駄作に過ぎない。
無駄に長いだけのシナリオ。9割近くは必要のない文章を読まされる。
特に問題なのが、多すぎる引用と文章の間違いである。
サクラノ詩はまともに読むと数十時間はかかる。
それだけ長い上に最初から最後まで文章がひどい。
どのようにひどいのか?
全てを説明するとあまりにも長文になるため、ゲーム開始直後であるプロローグの一部から文章のひどさを解説する。
◇引用と二重表現
ゲーム開始直後、宮沢賢治を引用。草薙直哉の持ち物に石川啄木。
プロローグ開始5分、夏目圭のセリフに「漢らしい男になりたい」というものがある。
このセリフを受けた草薙直哉は「重言を駆使してまで〜」と、心の中で圭を揶揄する。
重言というのは二重表現や重複表現とも言い換えられる。
二重表現を例示をすると「頭痛が痛い」「馬から落馬する」などが分かりやすい。
夏目圭に二重表現を用いさせ、それを心の中で揶揄する草薙直哉という構図で、それぞれのキャラクター性を描きたかったのだろう。
つまり、頭が悪いがまっすぐな夏目圭と、頭が良いヤレヤレ系主人公の草薙直哉という対比だ。
ところでサクラノ詩というゲームは10年以上延期していることでも知られている。
サクラノ詩の発表当時、2000年代にはインターネットで二重表現を使う小説家を馬鹿にするというミームがあった。
その小説家は山田悠介。彼はデビュー作『リアル鬼ごっこ』において多くの文章の間違いをネタにされることとなった。
「騒々しく騒いでいる」「最後の大きな大会では見事全国大会に優勝」などは一例である。
文章の間違いの中でも、二重表現が特に面白いということでネットのオモチャにされてきた。
(参考のため、この感想の最後に有名な文章の間違いを記載しておく)
サクラノ詩に話を戻す。
ここではライターが草薙直哉の心の声を使い、二重表現の訂正を行っているわけだ。
そうして「ライターは文章の正否のわかる人間なのだ」というアピールが行われている。
初めに宮沢賢治を引用して知性をアピールしたように、山田悠介によってネットミーム化した二重表現を引用して揶揄し、ライター自身の知性を再びアピールしたのである。
文壇で評価されている宮沢賢治や石川啄木を引用し、ネット叩かれている二重表現は馬鹿にする。
なんとも権威主義的である。
まるでこのゲームの信者のようではないか。
引用が異常に多いのは、虎の威を借る狐そのままの心理。
そして二重表現叩きは、引き立て役としてブスを交えて自撮りをする女と同じ心理だ。
その後、しばらくプロローグを読み進めると違和感のある文章が出てくる。
「どうにも話に乗れない俺は、適当な相槌を打ちながら圭の話をスルーしていった」
あまりにも酷い文章である。
一文中に同じ意味の「話に乗れない」「適当な相槌」ときて「話をスルーしていった」と3回も続ける。
強調するためにあえて二重表現を用いるというテクニックも存在するが、プロローグの中で二重表現を馬鹿にした直後にこんな文章が飛び出してくるのには虚を突かれた思いがした。
次の一文は本当に酷かった。
「毎年同じ様に咲く様に思われた桜」
小学生の作文でもこんな文章は書かない。
先に書いたように、二重表現を行うことで意味を強調するという使い方もある。
が、このライターは完全に間違った言葉の使い方をしている。
おそらく「頭痛が痛い」「爆発音の音」「背後の後ろ」「漢らしい男」など...
これくらい簡単な間違いでないと間違っていると認識できないのだろう。
自身の間違いには気付かず、他人の間違いを見つけたら鬼の首を取ったように攻撃する。
上記二つの文章はあくまで一例である。
二重表現だけに限ってもプロローグの中だけで他に複数ある。
ほかの表現や文法にも間違いは多い。
最初に書いた通りプロローグの一例だけを説明したわけだが、これが最後まで続くのである。
◇衒学趣味
サクラノ詩を絶賛している人の多くは「文章にクセがある」と言うことがある。
なんのことはない、これはクセではなく"明確な間違い"である。
ここから当たり前に導かれる推測がある。
ライターは作中で引用されているような作家の本など一度も読んだことがないのではないだろうか?
あなたが「このライターは本を読んでいる!」と思うなら、それはライターへの侮辱だ。
ちゃんとした本を読んだのにちゃんとした文章が書けないなんて、その人のことを馬鹿だと言っているようなものだ。
本を読まない層に向けて、なんとなく凄そうな作家の名前を引用してライター自身の価値を上げる。
これをブランディングとして行っている、とても頭の良い戦略だ。
あわれ何割かのプレイヤーは「俺は何か高尚な"作品"を読んでいるんだ」と錯覚する。
本当に見事な洗脳教材だ。そして洗脳によって生まれるのは信者と教祖である。
冒頭で宮沢賢治を引用、草薙直哉の持ち物に石川啄木。
ライターが読書家なのか? 否、ただの衒学趣味である。
衒学とは、知識や教養をひけらかすこと、学者ぶること、知ったかぶりすることをいう。
誰しも経験があるのではないだろうか?
小学生や中学生の時、初めて知った難しい言葉や知識を会話に織り交ぜて自慢げに話したことが。
このゲームは最初から最後まで全部コレなのだ。
プロローグが終わっても何も変わらない。
作家や古典を挙げ、権威という名の虎の威を借るだけの無駄な文章が延々とつづく。
退屈を超えた退屈。絶望的なまでにテンポが悪い。
◇その他の感想
登場人物は全員が話を動かすためのパーツに過ぎない。
シナリオ展開ありきで喋る、動く、それだけ。キャラに人間味がないため感情移入できない。
ギャグは笑えない。明らかに変なだけのキャラを出して変なことを言わせるだけ。
ツッコミは喧嘩のようなノリ。それに意味があったかと言うと、無い。
伏線の貼り方が下手っぴ。これ伏線ですよ、と置いておいたものを後で拾うだけ。
ある謎を提示して、その場で答えを言わずに後で明かすだけ。
そういうものは伏線とは呼ばれない。
後付け解説を入れる布石を打っているだけ、茶番に過ぎない。
ハッとなる伏線回収やトリックは、ひとつも無い。
◇本当の感想
ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」は有名な言葉だ(引用してごめんね テヘペロ☆(・ω<))。
このゲームをプレイした者にも当てはまるだろう。
バカな文章を読んでいると、その文章に影響されて自分もバカになってしまうということだ。
このゲームについて語るプレイヤーの多くは「考えさせられた」「考察した」「芸術性と哲学を感じた」などとうそぶく。
その実、考えさせられた結果、考察した結果、簡単な文章の間違いが無数に存在することにすら気付けていないのだ。
そして彼らは的外れな「考察(笑)」を披露する。
他人の「考察(笑)」を読み、レスポンスを返し、悦に入る。
他人の感想や評価のいかに参考にならないことか。
他人の意見に左右されて、それをマネして意見を口にしているだけの者。
「みんなと同じことを言って、理解してるフリをしないとバカだと思われちゃう」
「大勢が評価しているから、自分も多数派に入って大きな顔をしないと」
「シナリオゲーを理解している俺かっこいい!とアピールせねば」
ただエロゲをプレイしているだけなのに、インターネット上で"知的なエロゲーマー"の称号を得たいがためにキョロキョロとうろつく様は本当に滑稽だ。
「高尚なモノを理解している俺(キリッ)」を装うプレイヤーたちの実態。
ある意味、それを最もよく教えてくれるゲームであったのではないだろうか。
だいたいこんな間違いだらけの文章には、義務教育の過程を経ていれば違和感を持てるはずだろう。
断っておくが、それが出来ない人の全てをバカだと謗るつもりはない。
問題なのは「考えさせられた」「考察した」とうそぶくわりに、何にも気付けていない人たちだ。
それって本当は考えてないよね、文章を目で追ってただけだよね。という話。
別の言い方をするなら、彼らの感想には「みんながこう言っているから」というバイアスがかかっているのだ。
ネットで他人の論評もどきを読み、文体だけ変えて同じようなことを「自分の感想」として残す。
小学校低学年の児童の読書感想文と同じ構図だ。
「みんなが名作って言ってるから名作に違いない!」と、周囲の空気感という"場面装置"に騙されたプレイヤー、そして騙されたことに気付きたくない(それを認めたらプライドが傷付くから認めたくない)プレイヤー。
"知的なエロゲーマー"であるアピールとして、自らを修飾するために使うゲームとして『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』は本当に優れたゲームであった。
ネットで馬鹿にされてきたリアル鬼ごっこの文章
「二人が向かった先は地元で有名なスーパーに足を踏み入れた。」
「もの凄く機嫌が悪く、不機嫌な顔をして」
「騒々しく騒いでいる」
「最後の大きな大会では見事全国大会に優勝」
「罪として重罪が下される」
「いかにも挙動不審な行動で」
「そう遠くなく、近いようだ」
「愛を探すしかほかないのだ」
「十四年間の間」
「うっすらと人影がかすかに現れた」
「しかし、洋の姿は何処にも見当たらなかった。何処を探しても、洋の姿は見当たらない」
「佐藤さんを捕まえるべく鬼の数である」
「ランニング状態で足を止めた」
「遠く離れると横浜の巨大な遊園地ができた」
「三人は分かち合うように抱き合った」
「営々と逃げ続けた」
「もう一度首を右に左に素早く後ろへと回し、ぐるりと体を反転させた」
「記憶を全く覚えていなかった」
「この話は人々の間とともに長く受け継がれていく」
これはリアル鬼ごっこの初版に実際に書かれていたものであり、今は修正されています。
リアル鬼ごっこはもともと自費出版であり、編集もついていなかったため校正がなかったことが間違いの原因だと言われています。
山田悠介さんは「自分が間違っているくせに、他人が間違っていると馬鹿にする」ということはしない。
まっすぐなシナリオを書く。直す時間があればミスは直す。引用でなく自分の言葉でシナリオを書く。
素晴らしい小説家ですね。
間違いは訂正すれば良いのだ。
どのゲームとは言わないが、アホなゲームをプレイして絶賛している人は一度考えてみてほしい。
「本当にそのゲームは面白かったの? まわりのみんなに合わせて嘘ついてない?」