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エストさんのサクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-の長文感想

ユーザー
エスト
ゲーム
サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-
ブランド
得点
100
参照数
6013

一言コメント

テーマ描写を優先しキャラを駒として扱う印象の強いすかぢさんが、人との交流に焦点をあてた「反哲学的物語」を書くということでプレイ前は不安しかなかったが、まったく杞憂だった。本当にすごい作品だったと思う。物語性を損なわず「幸福」という大きなテーマの前に「他者の存在意義」「美」「芸術」「神」などのテーマが収斂していく様は圧巻の一言である。以下はテーマ考察

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

シナリオだけでなく音楽CGも高水準で本当にすごかった。100点をつけるのは最初で最後になるかもしれない。
日常に虚しさを感じるプレイヤーはボロ泣きするしかないだろう。

というわけで、以下感想です。
1日かけてようやく自分の中で納得し切れたと思います。
私も趣味の登山で神を感じながら生きようと思います笑(因果交流のやり方が謎ですけどね)
やはり哲学書より物語の方が深く共感できて良いものです。そこまで哲学書読んではないけど。

わざわざメモとってプレイしたのでテーマ関係まとめようと思ったのですが長すぎたので、
メモ転載に止めることにします(論理がつながるよう整理はしてます)
感想はここまで、以下は一応テーマ考察みたいな内容にはまとめてますので

サクラノ詩メモ

☆=大見出し
★=小見出し

☆幸福な王子
直哉は、圭はツバメのようだと語る、絵を描く直哉を側で待つという意味で 
幸福な王子は間違いなく奉仕の精神を持つ直哉だろう(各登場人物に大切なものを捧げている)
そして直哉がツバメへの最後の贈り物を終えたとき、ツバメは死んだ
ツバメの死後、直哉(王子)は神を感じ幸福に至る
ツバメはただ王子のそばにいたかった、王子がただの銅像ならずっとそばにいられた
圭は直哉が挫折を知るほどに高く飛翔する画家だとして向日葵を贈ったという

☆直哉は因果的交流電灯の中心としての役割を負う
「サクラノ詩」とは草薙直哉を中心とした因果的交流電灯の輝きがなす作品といえる
そして草薙直哉は因果交流の芸術家 他の芸術家との交錯によってその真価を発揮する

☆Ⅰで幸福な王子を読む稟
幸福な王子と直哉の共通点を指摘 稟は登場できないという 
Life imitating art 稟のするべき事と語る
ここでの稟は、稟が弓張帰還時に吹が影響を受けたと語ったことから、少なくとも一部は自分の才能を取り戻した稟と考えられる。
    ↓
★最後に稟は、自らも美を弱い神と考えるとつぶやく(春と修羅と同じ)
圭の葬儀に姿を見せなかった彼女が一体何を考えていたのか。おそらく自らが芽を摘んだ圭と直哉という芸術家の道をせめて行くという贖罪でもあり、未だ芸術家として炎を消していない直哉を再び画壇に引っ張り上げるための海外での活躍なのだろう。稟が唯美主義思想にこだわったのはそのためで、自らも本心では弱い神を信奉しながら自らの絶対的神に抗えず、直哉の良き対向者であろうとしているように見える。

☆『a nice derangement of epitaphs』 ドナルド・デイビットソン
 言葉の意味とは規則慣習によらず、発話者の意図に依存すると主張する
 心とは、そこに感じたものである よって誰かの、何かの心は自分の中のものである(琴子)
             ↓
発話者の心が言葉には宿るという解釈になる(芸術を通してだけでなく、他人そのものにも存在意義が生まれる)


☆芸術の役割(picapica) 
美的感情(美しい)とは自分の限界=世界の限界を感じる事そのもの
そしてその「美しい」を具象化するのは(作品をつくるのは)その限界をギリギリまで見るために必要だからである
(言葉を旋律に変えて神(美)を感じる、美的感情を芸術に変えて神(美)を感じる)
言葉を旋律にした音楽、絵画、陶芸など、本作の芸術の役割とは世界の限界をギリギリまで美しいと感じる事である 
(なおこの芸術の役割は旋律として既に素晴らしき日々で示されているので今作のメインの役割ではない)
     ↓
★ここに「他者」の存在意義がある。
自分の限界であり世界の限界であると感じられた「美しい」のさらにその先を感じさせる可能性を持つものが他人。自分の限界を他人のインスパイアで拡張すること。私が見たことも感じたこともない美を私の世界に導入しうるのが他者ということである。
★他人の生み出す芸術にもまた同様の力、存在意義があると語られている。
 圭と直哉の対比はこのテーマのために描かれていると思われる。
 また真琴が市役所の直哉の絵を見た時も同じ、たった一枚の絵で私の世界は変わった
 さらに藍と健一郎の関係も同様 直哉と吹の対決は直哉の世界を変えた
 弓張美術部における交流、それはそれぞれに限界の先を見せた

 共作における「因果交流」は最もこのテーマを良く表現している

※補足
世界の限界とはウィトゲンシュタイン的に言えば言語で有意味に表現できる範囲であり、論理空間の限界であるが、これ自体は他者に影響されるものではない。ここでの他者の意義とは、あくまで世界を「美しい」と感じられる範囲の限界を拡張することを指す


☆美
(a nice derangement of epitaphs、IV)
美は語りえぬもの 芸術は人間的なもの=「芸術とは人生の批評である」
★閉じた世界は芸術ではない、それは完璧ではいけない、絵は見られることによって再び生まれる(観客の必要性、唯美主義の否定)
 無音の桜の森(閉じた世界)で音が鳴る(生が吹き込まれる、観客が見る)とはそういうこと
 作品は死骸、標本、死んでいる それは本来動的な世界を閉じ込めた永遠だから
 だから芸術は見られることで完成する=芸術は人間的
              (観客がそこに美を感じることで芸術は再生する)
このように考えるとき、作品にはあらかじめ製作者の心が閉じ込められていることとなる
これが観客が美を感じることで再生される、ここで初めて作品は完成し更新される
 =「作品は、いつまでも鑑賞者に更新され続ける」
★ここにおいて芸術の役割とは作品の思いを人に伝える事である(本作メインの役割)
だから明石の語るように誰がその作品を作ったのかは関係ない 大事なのは伝わるかどうか、それさえできれば問題ない(VI)


☆芸術の思想から美の在処へ、そして幸福へ、その先へ(Vラストシーンの流れと解釈)
芸術は自然の模倣、Life imitating art
         ⇔
禀の主張「世界すべては芸術の模倣(唯美主義)」
→美(語りえぬもの)を語る思想
=自然は芸術を模倣する 「この絵画の意味は美そのものである、存在することだけが、この絵画の存在理由なのだ」 →ここにおいて絵画に観客は介入しえない(観客の否定)

芸術は、自然が自分からどう見えるのかを解釈をすることと考える
見るという行為は必ず価値、意味が入り込む 
→美しさを認めたときそのものは実在する その物の美しさを潜在的に観測者は理解しており、自然を前に観測者はその理解を想起しているにすぎない
美とは発見されて初めて認識され、それまでは認識されない(→意味、概念は常に自然では無く人が与えるものである)

直哉の反論(Life imitating art との共存思想)
人間の頭に美は最初からなんて存在しない、それは自然から取り入れた概念である(ジェームズ・ギブソン、アフォーダンス理論)
生物は最初から概念を有しない
しかし人が新しい概念(美)を取り入れたその瞬間、その(私の)世界に概念が誕生したとも言いうる(独我論+アフォーダンス)

  両者は双方向的である 自然と心、どちらから概念はうみだされるか
  自然と心は同一である なぜなら、心と自然は等しく「私」の中にあり区別できない 
  世界とはあくまで主体により観測されるものでしかなく、私と世界の区別に意味はない
  Life imitating art と唯美主義は同じことである

エミリ・ディキンソン 頭(私)と山、海、神は同じ その違いは言葉と音の違いほど 見方感じ方程度の差でしかない
→世界と私は一体であることを表現
=「私の限界は世界の限界である」正しくは、「私の限界は世界の限界とまったく同じ」となる
どちらがア・プリオリという関係ではないし、別個に同時存在するわけではない
言い換えれば「世界の限界で私は循環し、私の限界で世界は循環する」
心と自然はつねに円環の中にある(見て、発見して、実在する、の円環性)
→★美もまた、私と世界で循環、流動するものである(心がみつけ、自然に気づかされるは円環する)
→★世界は流動的、よって一瞬を切り取る絵画に世界は閉じた永遠として映りこむ

稟の再反論
数学という概念で自然は説明されてしまう これは自然から観察しえない事象も同じ
ここにおいて自然から概念が提供されるという方向性は崩れるのではないか
数学的真理は観客に影響されず、心による発見はできないという
(観測者いないのに実在するの?)
事実、美の中には三角比等の数学的真理が内包されている
数学的真理が私と別個にあるとでもいうのか 数という概念は何か
数式には美が原始的に内包されており、よって世界を記述できると稟は言う
すなわち、数学的真理という絶対美が主体の世界とは全く別個に存在するという
→美は主体から独立に存在する(唯美主義回帰)美醜とは神がつける原始的価値と稟は言う
「美は、美として存在するから価値がある」「そして、それは神の存在理由でもある」
ここでの神とは美をなす行為の背景のこと、キリスト教的なものではない

→ゴーギャン「神は、学者、論理学者のものではなく、詩人たちや、夢のためのものであり、それは、美の、美そのものの象徴なのだ」汎神論 神秘としての神の重視 キリスト的神の抹殺
★本作の神とは美のことである(正確には美の背後に存在する神秘的存在として神を捉えている)

「美」とは美醜の決定をする美の理念形そのもの 「人は美(神)を模倣する」

直哉の応答 「美(神)は人を模倣する」
美もまた人が作ったもの、主体なしに独立には実在しない
★故に人の作る美は完璧ではない、一貫しない、そこには虚無がある
 そこにある美とは人の思いで変容する弱い神である
 だが、人がその存在を信じるだけでそこにある身近な神である(Olympia 信じることに論理的確証は不要である)
 神は人とともにある、誰の中にもいる、誰の中にもその虚無はある
       ↓
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)
       ↓
★だからこそ、私たちは芸術を通して(美を通して)その虚無を心で埋めて影響しあえる(芸術の役割)
 心が、思いが交差し因果交流ができる。
 そしてそれこそが、私と世界の限界と感じられた「美しい」を拡張するという他人の存在意義なのであろう
       ↓
★そして世界の限界をそのギリギリまで感じ、人は神を感じる
 神とは美である
 そこにあるのは自分だけの弱い神様である。しかし弱い神様だから幸福を感じられる
 強い神様は度が過ぎた酒だ、幸福は多すぎればつらいだけなのだから
 
 生きていこうとするから苦しい、だから苦しいは生を感じさせる
 抗うから、消滅をさけ、生きるから苦しい でも抗えるから苦しみは正しいのだ
 それがなくなったら終わりだ 本当の不幸に苦しみなんてない(苦しみの必要性)

 そして人は幸せも不幸も肯定する。辛い時も幸福はそこにある
 度が過ぎればなんだって苦しいのだ それが幸せでも、快楽でも、幸福でも
 幸福とは幸せと不幸である 不幸もまた幸福である

→本作の「幸福」とは幸せと不幸を抱き合わせるものである、苦しみそれでも世界に神(美)を感じ、世界(=私)を美しいものと肯定することで、自己の生そのものを肯定できた際に至る境地こそ「幸福」である。簡単に言うと、どんなに日々が苦しくてもつまらなくても醜くても、ちょっとした事で世界は綺麗だなと思えればいつでも幸福なのである★

※まとめ<芸術を通し、自己の世界(=私)を美しいものとして肯定する(神を感じる)ことで自己自身の在り方を、自己の生を肯定できる。世界は美しいと肯定される以上、世界と一体である私の在り方そのものも肯定されるはずだからである。厳密には、自己が芸術で世界の限界を感じ、他者に芸術を介しその限界を拡張してもらうことで真に世界の美しさを感じ、自己の生を肯定できる。しかしその美が絶対的な強い神では苦しみは感じられず、自己の生を実感することはできない。故に自己の生は肯定できず、幸福には至らない。相対的な弱い神を世界に感じてこそ自己の生の肯定=幸福にたどり着ける。なお神とはウィトゲンシュタイン曰く生の意義そのものである。神を感じるという事は「幸福に生きよ!」と囁く神の存在を感じることに他ならない>


★「幸福の先の物語」
VIに対応すると思われる 
また、「春日狂騒」後半の在り方がおそらく「先」にあたる
直哉は圭の死で抱えた孤独感をそのままに日常を生きる
圭の死=愛する者の死(中也が突如子を失ったことと対応)
また、奉仕の精神を持つ直哉は序盤から中也に重ねられている

    1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばっかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編(あ)み――

まるでこれでは、玩具(おもちゃ)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向(ひなた)を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)えば、にっこり致(いた)し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒(ま)いて、

まぶしくなったら、日蔭(ひかげ)に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔(こけ)はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日(れいじつ)。

参詣人等(さんけいにんら)もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌(ごきげん)いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

勇(いさ)んで茶店に這入(はい)りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草(たばこ)なんぞを、くさくさ吹かし、
名状(めいじょう)しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑(にぎ)やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あっち)に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮(はなよめごりょう)。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手(あくしゅ)をしましょう。

つまり、我等(われら)に欠けてるものは、
実直(じっちょく)なんぞと、心得(こころえ)まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。


圭の死により孤独を抱え、幸福に至った直哉はただ日常を生きる
喜び過ぎず、悲しみすぎず、自らの生を、不幸をも肯定し受け入れながらただ生きるのである
(だから桜子は、先生は欠けているようで欠けてないと言う。ここでは桜子=不幸を背負い欠けてしまった存在、直哉=不幸を背負いながらもそれを肯定し欠けを補った存在として対比がなされている)
この詩の後半の在り方、そしてVIの直哉の在り方こそが、幸福の先にある「日常」なのだろう
なお直哉がサーフィンを趣味とする描写は、サーフィンが自然(世界)に美(神)を感じる行為であるからだと思われる
「美とは幸福にするもののことだ」(草稿、ウィトゲンシュタイン)がサクラノ詩通してのメインテーマとも言える

因みに「幸福の先への物語」とは、サクラノ詩が幸福の先を示すための物語だということを表すにすぎないと思われる
また、「反哲学的物語」とはVIを指すと思われる(Ⅰ~Vは美や神など形而上学的存在を扱ってしまっている)
思うにここでの反哲学的物語とは、論理哲学論考という梯子を投げ捨てた後に残る、哲学的問題の一切が解消された先にある日常を指すように考えられる

直哉がVIで作った絵は幸福を象徴している
美しさは櫻たちの足跡、穢れはブルバギの絵、穢れと美しさを内包しながらなお作品は美しい

★作品を生み出すのは、描きたいという信念である
→逆説的には、作品とは信念でできている、心が込められている
だからこそ芸術は他人の限界を拡張するほどの力を持つ、絵は言葉以上に心を語る

★芸術はむしろ言葉を使わない、使うのは音、響き 音色にこそ価値がある
→言葉は旋律となり意味を変えるのと同様 旋律とは作品と同じである 
そして旋律、作品はその内包する虚無に心を載せて伝える役割を果たす



★幸福
幸福とは最高と最悪が張り付いたものである
他人から見て最悪な時、人生を生きてる。楽しんでる
クソみたいなものを感じているからこそ、それは最高の生き方だ、幸福ってやつだ

→本作の「幸福」とは幸せと不幸を抱き合わせるものである、苦しみそれでも世界に神(美)を感じ、自分の生を肯定できた際に至る境地こそ「幸福」である


幸福は創作と似ている 創作は楽しさもあればそれ以上に苦しさがある
しかし創作が進んだある一点において、創作者は「楽しかった」という(吹との勝負)
これは人生の楽しみ苦しみを自らの物として受け入れ、楽しみの中に肯定することである
過去と未来の創作への不安期待。-も+も抱き込んでそれでも肯定的に創作は捉えられる(VI)

奈落とはこの足がたつ大地のこと 現実のどこにでもありうるのが奈落である(おそらく奈落とは不条理を指す)
→圭の死がこれを象徴、不条理に会い「幸福」という考え方に意味が出る


健一郎(IV)
幸福は捕まえるのが難しい 最高の瞬間は後からわかるものだから
最高の瞬間はキラキラしすぎてその時はそれが普通に見えてしまう。その時はわからない
幸福は仮想の春一面の空のよう 本体などなくふと立ち現れる色彩過多の電灯群のよう
幸せと苦しみの間で振り子のように人生は動く(その瞬間がどちらかなどその時はわからない)
 だから「今」、これまでの人生とこれからの幸福に乾杯する、自分そのものを肯定する
なおIVでのゴーギャンの引用は、神と出会い幸福を感じたゴーギャンと幸福を感じウィスキーの栓を開けた健一郎を重ねるため使用されている


★VIにおける物語的欠損
草薙直哉が「幸福」を語る以上彼ははたから見たら不幸でないといけない
誰から見ても幸せな人間の語る「幸福」など説得力皆無である
(逆に言えば続編サクラノ刻では直哉の俗的幸福像しか描けない気もする)

☆御桜稟と間宮卓司
共に語りえないものを語ろうとするという点で共通する
唯美主義思想は観客を必要としない点で本作の芸術の在り方に反しているし、論考の考え方にも反している
→Ⅰの稟のシーンを見る限りやはり稟も唯美主義思想を完全に肯定しているとは思えない

☆永遠の相
ウィトゲンシュタインが論考及び草稿で持ち出した概念
永遠の相の下に世界を見るとは、世界を無時間性のものとして捉えるという事であり、世界での事実全てを必然のものとして考えるということを意味する
なぜそうなるかについては、永遠の相の下に見た世界とは「論理空間と共に見た世界に他ならない」(草稿、ウィトゲンシュタイン)から、即ち、世界は「対象」の総体であるからだが、詳しくは複雑なので論考参照

永遠の相の下に見られた世界は不幸をもたらす不条理さえも当然の事と捉える。よってそれらに絶望することなく、世界に神を感じた際にはそれさえも肯定されることとなる。即ち永遠の相の下に見た世界に神を感じ、世界を生への意思でもって肯定した先に幸福があるという事である