F&Cから生まれた鬼子。
この作品は死とは何か? と言うことを深く考えさせてくれます。
末期癌に冒されながらクリスの救いの手を握らなかった彼方。それはひとえに末期癌からの開放の代償が不老不死だったからです。(正確には不老不死に近づくだけですが)
古代から多くの人間が求めてやまないように、不老不死というのは大多数の人類にとって非常に魅力的な響きを持っています。
しかし彼方はそれを拒絶します。
何故か? 不老不死によって死を克服することは出来ますが、それは同時に生を放棄することにほかなりません。
今自分の周りにいる友人知人たち。不老不死になると言うことは、彼らの世界から一人疎外されると言うことです。
成長し、老い、死んでいく彼らを、今と変わらぬ姿で見送らなければならない恐怖、寂寥感。不老不死はそれに見合った代償を要求します。
もしも彼方が、引きこもりで一日中パソコンと向き合っているような人間だったら、クリスの言葉に二つ返事で飛びつき不老不死を手に入れ癌から開放されたことでしょう。
しかし、彼方はそうしません。末期癌患者特有の諦観にも似た雰囲気を漂わせる彼は、癌による死と不老不死による死を天秤の秤に乗せ冷静にその目盛りを見定めたのでしょう。
生が終わって死があるのではありません。生の中にまた死もあり、生が終われば死も同時に無くなるのです。不老不死は永遠の生を得ると同時に、永遠に死を失うことにほかなりません。
クリスの手を握らなかった彼方の判断は至極妥当なものでしょう。人間誰しも一人では生きていけません。今ある全てを捨て、突然現れたクリスを永遠のパートナーとして生きるのに躊躇があったのは当然のことです。
このシナリオ、題材はPCゲームとしては向いていないのかもしれません。
何故なら彼方の行動の意味は人との関係が少ない人にほど理解されにくいものだからです。
部屋に閉じこもり、ひたすらにパソコンとインターネットの世界に生きる、俗に言う「引きこもり」という人種。彼らの見つめている世界は「不老不死」に至極近いものです。
年を取らない画面の上の少女たち。膨大な数があり一つが消えたとしても新陳代謝を繰り返すようにして次から次へと新たに生まれ決して死に絶えないインターネットサイト群。パソコン越しに繰り返されるチャットでの会話は相手の変化を伝えきりません。
これもまた、ただひたすらに物欲だけを求めてきた高度成長期日本の弊害でしょうか。
彼方が死を選んだ意味。もしかしたらそれは、パソコンを自由自在に操る現代人よりも、軍刀を佩いて戦場に赴いていった戦前の日本男児にこそ理解出来るのかもしれません。