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アナトールさんのCARNIVALの長文感想

ユーザー
アナトール
ゲーム
CARNIVAL
ブランド
S.M.L
得点
95
参照数
1614

一言コメント

久々にやったけど、やっぱり面白い。でも、他の人の感想を読む限り、トゥルーエンドは小説にもってってる感じがする。買わなきゃだめだったか…。(※12/02/19 小説版感想追加。)

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

 小説については、自分が浅はかだったとしか言いようがない。自分はあの時ゲームやりながら「このエンディングはねえだろうよ。」と思い、「あの続編?けっ、続きなんざ読みたくねえよ。」と馬鹿にしていました。ハッピーな結末はこの作品に似つかわしくない。いやそれよりも、ゲーム版の最後で理沙が悟ったようなそぶりを見せていたのが気に食わなかったんだよね。「それでも私はこの世界が好きなんだ。」ってシーン、どう考えてもおかしいよ。どうしてそうなるのよ。ってな感じで、正直、がっかりした記憶がある。しかし、小説の内容はむしろ自分が望んでいたもののようで…もう入手困難なんだよなあ。ゲームはDL版で安いのに。
 さて、それはともかく本編ですな。この作品、シナリオがどうのこうのと言っていますが、何とか論みたいなたいそうなものは語られていないんじゃないかね。(幸福論云々はおそらく小説での話じゃないでしょうか。)というか、さえない男の社会の不公平に対する恨みつらみから生じる妄想をそのままつづったようなもので、単にかっこ悪いだけ。設定がかなりヒステリックな感じもするし、大局的に見れば幼稚だといわれても仕方ない。しかしながら、それだけの内容でとても面白い作品に仕上がったことに価値があるのだろうな。構成はまったくもって見事というほかない。疾走感のある展開を際立たせているBGMも、なんというか、イケてるね。エレガの菊田、藤田(文中敬称略、以下同様)という二人が担当したらしいが、今考えると豪華だな。
 やっぱり、本題はマナブとリサの関係かな。一応男の子と女の子という設定から恋愛関係という構図を示しているが、実際は信頼関係を恋愛の問題にすり替えて語ったのだろう。まあ、実際にその二つの概念ははっきりと線引きできるものでもないし。信頼している=恋している、そういう考え方があったっていいと思う。いや、やはり少し苦しいとは思うが。
 主人公のマナブはとにかく臆病で他人の顔色を伺わずに生きていくことができない。これは彼の感受性の強さに原因があるのだろう。その繊細すぎる神経が、いつもいつもいろんなことに気がついてしまい、また彼が他人を傷つけまいと考えながら生きてしまうから、他人との接触をやけに疲れる行動だと感じてしまい、孤独を愛するようになってしまう。彼のこの感受性の強さは、幼い頃の母親からの虐待が影響しているのか、それとも先天性のものなのかは判別がつきにくいが、母親との関係を持ち出しているあたりから考えると、作品では虐待行為がある程度影響しているものだと主張しているように思える。いや、しかし、こういうのは先天的なもんじゃねえかなあ。具体的な根拠を示すことができないからなんとも言えないが。
 彼の生き方は、とにかく不器用だと思う。彼にとって他人とかかわることは、とにかく深いものでないといけないらしい。表面上の付き合いは望まないし、先述したようにとにかく他人に対して気を使うので、そのような付き合い方をするとなると割に合わない。本気で他人に接する分、他人にも自分のことをもっと気遣ってもらいたいという、少し押しつけがましいところがある。しかし、このような自我を前面に押し出すような方法は、幼児が母親に甘えるそれと似ていて、やはり幼稚であるといわざるを得ない。そしてそのやり方は他人に受け入れられないから、彼は他人からの愛情を期待することをあきらめて自分の世界に入り込んでしまった。つまり相手に多くを求めすぎてしまう。それを認めてもらおうとして正しく生きようとするにも、他人には「重い」と感じられてしまう。そもそも普通の人はテキトーに付き合える相手のほうが楽だしね。相手に正しく生きることなんか求めてない。彼自身が依存性の強い性格を持ち合わせていることはやはり不幸の始まりであろう。まあ、あれだよな。なにかあるとすぐ私のことが云々とか言い出す偏執狂の女にはだれも近づきたくないっていう、そのようなものだと思うよ。
 さて、その一方でリサという女の子は、どんな女の子だったのか。自分はどちらかというとマナブに近い人間だと思うので、彼のことはまだ少しわかる気がするのだが、彼女についてはなかなか理解できない。
 彼女は、どうも確固たる信念を持っていない自分を嫌っているようである。彼女としては正しいという概念は相手の望んでいるようにすることだと考えていた。しかしそれでは反発が生じる。時には自分の望まないことも相手が望んでいるからという理由で行わなくてはならなくなる。我を通そうとすれば、相手が望んでいるのにそれを拒むのは正しくない行為だという考えで、自分が悪いという結論を出してしまう。彼女は、「信じる」という概念をイズミに出会うまで考えたことがなかったようにも思える。信じるというのは自我を認識してこその行為であるが、彼女の場合、自我が弱すぎたのでそれをとらえることが出来なかったんじゃないかと思う。自分はあれをしたい、これをしたいという欲求自体が少なかったから、自らが何かを望んでいるという状況を自覚したとき、彼女はそんな自分に戸惑い、嫌悪と恐怖を抱いた。
 信じるという行為は、それに係る責任のすべてを自分が被ることになる行動である。リサにとって、信じることによって逃れようのない自分を作るのはとても勇気のいることだったのでないか。だから信じることのできない自分を「いつまでも逃げている」と判断していたように考えられる。もっとも、何よりも自我を優先してしまうダメ人間のマナブにとっては典型的優等生に映るわけだが。
 それにしても、リサはなぜマナブを信じ続けたのだろうか。
 たぶん、マナブは自分さえよければいいやっていう割り切った考え方が絶対にできない子だと思う。ついつい相手を気遣ってしまうやさしいところがある。さっき言った部分で、相手に多くを求めすぎてしまうというところなんだが、彼は律義というか、相手に多くを求める分、自分も相手を気遣ってあげたいという気持ちがあるのではないか。まあ、そういう互いに相手を気遣うような理想的な関係を築くことを要求するというのがすでに彼のエゴなわけだが。おそらく、相手を誠実に気遣おうとする人がリサの周りにはいなかったんじゃないかな。マナブの優しさがリサの求めるものであり、同時に相手を気遣うという発想が両社の性格において通底する思想があったというのも彼女がマナブにひかれ、信じようとした理由になっているのではないだろうか。
 この物語はこのように全く環境の異なるはずの二人が同じような孤独を抱えていたという偶然がドラマになっている。信じることでしか自分を肯定できないマナブと、信じることができない自分が初めて信じることのできる存在を知ったリサと。一見すれば美しくもあるが、その実はどうだったのか。二人とも自分をどこか客観視するところがあるから余計にそう思えるのだが、たがいに自分が信じようとする行為は、互いのエゴでしかないという醒めた目で見ることになってしまう。マナブが他人を信じることで他人に何かしらの厚意を要求するのもエゴだし、リサがマナブを信じるのだって、誰にも言えない自分を理解してほしいというエゴに基づいてる。エゴというのは、信じあう互いにとって何よりもの脅威であるのだ。なぜなら、それが相手を裏切る原因となってしまうからである。とりわけマナブにとっては、最後にリサを置いて一人で出ていこうとしたのだが、それはマナブ自身が裏切ることの悪さを知っていたからだと思う。信じあえば信じあうほど、自分が正しいと思っていることを相手に押し付けてしまう結果になるがゆえに、二人の間での齟齬が生じやすくなってしまう。そしていつかは相手を裏切るときがやってきてしまうものである。マナブはおそらくそう判断したのだろう。リサはマナブを信じることしか考えていないで、裏切ることに対する後ろめたさを感じ取っていなかったように思える。ただ、同時にマナブ自身がどうしてもリサを信じきれなかったという側面もあるだろう。今でこそこうして手を取り合ってはいるけれど、いつか裏切られてしまうのではないかという不信があって、それだったら初めから裏切られるような可能性自体を摘み取ってしまえばいいのではないかという計算が働いたのではないだろうか。結局、他人は自分でないのだから、いつかわかりあえない時が来る。そういうことか。
 自分にとってのこの作品はこんな印象です。他にもイズミとか、マナブの母親とか、重要人物はいるのかもしれないが、よくわからない。まあ、マナブに関しては「なんでテレビもないのにアイドルの情報を得たがるのだろう?」とか、細かいところに突っ込みたくはなったがどうでもいいことなので放っておこう。

 それにしても、改めてプレイしたら、万華鏡のエピソードの「のぞいてごらん」というシーンで思わずいやらしい想像をしてしまった。”まんげ”鏡というのもポイントだったのかもな…。トシとった証拠かねえ…。

(以下、小説版感想)






 小説のほとんどは、理紗の弟の洋一の話で埋められていて、学はちょこっとだけしか出てないね。なんだか小説は小説で一つの作品としてみたほうがいいような気もする。だから小説の感想としては洋一とサオリの話について語るべきなんだろうけど、やはり学のほうが気になってしまうというわけで。小説の最初も学の独白で始まっているしね。にしても、これが幸福について語っている話なんですね。幸福なんて言葉がサオリが語る場面ぐらいしか出てこないから幸福論といってもピンとこないです。そもそもこの小説は何が言いたかったのか理解できないけど、自分なりの感想を追加させていただきます。(あくまでゲームの続きとしてとらえていますので、おそらく小説の感想としてはまるでなってないと思いますがご容赦ください。)

 学の遺書にある、「ゴール」というのは何を指しているのか。子供の時に見たものは変わらずに今でもあるもので、僕らはゴールするには長く生きすぎた。ぼくたちはゴールを目指して生きているけど、生きれば生きるほどゴールから遠ざかっていく。(ここはちょっと自分の解釈を加えました。)そのように書いてあるが、もしかしたらそのゴールというのは、おそらくはぶら下がっているにんじんを掴み取ることなのだろう。
 このことについての答えは後述するとして、学の最期のシーンについて考えてみたい。
学は、父親の「私を、許してくれるのか?」というセリフから想起されて、「死んでいる人間に償うことは一生できないが、生きている人間は許しあえる」という、まるで閃いたかのような一言を返す。この言葉ののちに純然たる世界を一瞬ではあるものの見つけだすことができた。あの瞬間の彼の感情を細かく分析するのは野暮なことだと思う。何が何だかわからないぐらいに混沌とした感情が含まれているだろう。けれどもあえてそこに焦点を当ててみよう。
 まず、許されることと償うことは本質的に違う。父親は学に許しを請うことで、自らが救われようとして見せた。ここで学は父親に対して、あなたの場合は生きた人間が相手だからいいけど、僕の場合は死んだ人間が相手だから許されることがない。そういう思いがあって「死んでいる人間…」という発言に至ったのだろう。
 しかし、言ってしまった後に、すぐに気付いたのではないだろうか。もしも亡くなった三沢や博美がゾンビとなって現れて彼を許したとしても、彼の罪悪感はどれほど消えてくれるのだろう。相手がいかに許したとしても、犯した罪が消えるわけではない。犯した罪を償うことと、相手から許しを得ることは別問題なのではないか。だからこそ彼は父親を許すことを拒んだように思える。「別に、罪悪感で自分自身を苦しめてるような人がいるのが嫌なだけだ。」と答えているのは、彼の優しさか。彼はもう死んだはずの博美や三沢の幻想がどうして見えているのか理解しているはずだ。本当に死人が恨んで出てきているのではない。学自身に罪悪感があるからこそ彼らは存在しているのだ。彼は父親から許しを求められる立場になって、彼を許すと告げたほうが、いつまでも許さないでいるよりも残酷なことではないかと感じたのではないだろうか。(あるいは、学は父親から許しを請われる立場になって、彼をどうしても許すことのできない自分に気が付いた。「別に…」の会話は、彼を心から許すことをどうしても認められない自分の心情を告白したものである。しかし、この自分の気持ちを肯定すると、人を憎まないでいることのできない自分の存在は、学の理想とする罪のない世界においてはもっとも否定されなければならないという自家撞着に至る。この理屈があの結末への引き金になったと解釈したほうがしっくりくるかも。前の解釈とニュアンスとして似通っている部分はあるけれども。)
 この言葉を告げた後、彼の頭の中からノイズが消え、澄み切った世界が開けた。それは彼にとっては非現実な現実、そして久々にみた生の世界だと思う。
 彼は、生死を相対的にとらえることができる。多くの人間はスイッチのオンオフと同じく生きている世界と死んでいる世界は全く切り離されたものとして考えるだろう。しかし彼の場合、幻覚とともに生きていて、彼が殺した人間の声を聴きながら生活している。死者とともに過ごしている彼の世界は生きている世界でありながら死んでいる世界に非常に近い。死者の怨嗟に苛まれながら生活していた彼が、久々に死者から解放された世界を感じたとき、その美しさに感動し、そして理紗にこの純粋な世界を伝えたいと思った。
 彼にとっての現実は、いったいどういうものであるのか。一般的には、死者が語りかける世界などというのは明らかに非現実である。言葉をしゃべるのは生きている者だけだ。しかし彼が受け入れる世界は、彼にとって最も正しいと思う世界であって、それは彼の罪悪感が描きだす死者の怨言がこだまする絶望的な空間である。我々が見ている世界とはあまりにもかけ離れている。
 世界はとても残酷だけど、美しい。彼にとってはその美しさから残酷なほどのあだとなってしまった。彼は確かにあの光景の美しさに心奪われたが、それが刹那の幻想だと気づくと、彼自身が見ている現実との彼我の距離の果てしなさに途方に暮れて、改めて自分がもう戻れないところまで来てしまったことを改めて感得してしまったのではないだろうか。遺書の最初に「いつかはこうなることは分かっていたんだ」と記されている。彼はおそらく、あの祭りの夜から死人の世界への彷徨を始めていた。母を突き落した瞬間から許されることのない、また償うことのできない罪に苦しむ宿命に呪われてしまっていたのだ。
 彼の場合は極端であったけれど、人は誰しも生きていく限り、他人の利益を奪っていく経験は避けられない。そうして罪を重ねていく。これもまた我々が生きる世界においては揺るがすことのできない真理の一つである。生きていくということは、つまり自らが犯した罪を、同時に罪を犯さずには生きていけない自分を受け入れていくことでもあろう。これは学とは直接関係のない場面だけど、洋一と泉が飲みながら「泉さんは理想主義者ですね」「洋一君は潔癖なのね」と語り合う節がある。きっと学はこのいずれにも当てはまる。世界に別れを告げるときまで、ずっと罪を犯さないで生きられる世界というあてどない理想を求め続けた。それが彼の言う「ゴール」であろう。
 さて、ここでこの「ゴール」とニンジンを捕まえることと結びつけて話をしたい。
 今、一つの真っ白なキャンバスがあったとする。ここに、「幸せ」というタイトルで絵を描いてほしいと願ってみたい。たいていの人間は、花が咲き乱れ、鳥が舞い踊るような、美しく穏やかな絵を描き出すのではないかと思う。
 しかしながら、現実に映し出される幸せというのは、美しいどころか、醜さに満ち溢れている。幸せというのは、誰かしらの犠牲の上に成り立っているものが多く、そのような犠牲に対して無自覚でいる人間がほくそえんでいる光景を指しているのである。
 「ぶら下がっているニンジン」は、本来であればそのような醜い、忌々しい存在である「幸せ」を、何とかして美しいものに変えていこうとする様を表現したようにも思える。果たしてそれを幸福と呼ぶのかどうか定かではないが、彼が自らの苦痛から解放されるための手段であったことは確かだろう。


 まあ、面白い話だったけど、ちょっと不満も。学は遺書の中の追伸で理紗に「ありがとう」と言っているんだよね。ここはごめんなさいだと思うんだけどなあ。今更謝るほうが白々しいって考えたのかな。それにしても学ってのはほんっとに自分勝手な生き方してるな。彼の場合は理紗がいたからいいけど、普通だったらどうなっていることやら。いや別に作品に対してケチをつけるつもりでは全くないですよ。学自身自覚しているだろうし、理紗としては、そういう自分勝手な学が好きだったんだろうしね。ゲームの最後では、学が一人で行こうとしたところを理紗が追っかけてったんだし。けど、一人で先に死んじゃうのはなあ。理紗はやりきれんだろうに。あの時も理紗は「謝って。」って言ってたよね。まあ、学は生きることに不向きであったよ。他人を侵害する罪悪感っていうのはみんな持ってるんだと思うんだけど、それが強いか弱いかは人それぞれだし、結局他人を傷つけたくないっていってるわりにみんな誰かの犠牲の上で生きているわけだから、罪悪感を持つこと自体はさして合理的ではないんですけどね。ほんとにそれは生きることに向いているかどうかという問題だと思う。
 あと、なんで洋一はことごとく他人の風貌をコケにしてるんだ。そんなに自分の容姿に自信があるのか。