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アナトールさんのGolden Marriage -Jewel Days-の長文感想

ユーザー
アナトール
ゲーム
Golden Marriage -Jewel Days-
ブランド
ensemble
得点
72
参照数
21287

一言コメント

訴求対象ェ…。(※本編未プレイの方へ警告:高血圧の方はプレイをお控えすることをお勧めいたします。心臓の悪い方はニトロのご用意を推奨いたします。死んでも責任取らんぞ。)得点は本編含めての評価で、長文はあんまりにもつまらないので愚痴を書いてたら脱線しまくっただけです。本編未プレイの方には本編+FD同梱版が発売されているのでそちらの購入を…そう考えて感想は本編に対する愚痴をグダグダと。反則だろうけどたぶんこのような回答が求められているものと感じたのであえて押し通します。まあ正直に言うとFDは書くような内容がないんだわ。いちゃラブの続きなだけで継ぎ足しのようなシナリオも面白くない。しかも攻略ヒロインが本編と同じってなんのためのFDなのよ。FDはストーリーにしてもエロにしても明らかに中途半端な内容だけにこれはねえ。同梱版を前面に出すべきでしょうな。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

<本編の感想>

 豪華なお屋敷住まいのイケメン王子様主人公。彼には人格に若干の難があるけれども可愛らしい幼馴染がいて、用心棒も常に携えており、美人の知り合いがここそこに沸いておりますがな。残念無念な友人の山村君は完全な引き立て役で、ボクちゃんまじかっこいい。ヒロインがえー、勝ち組デイトレーダーだか医師の娘だとか、おまいらには、ってゆーかパンピー(死語?)には一生縁のなさそうな奴らばっか。残念でした。アイキャンフラ~イ。あとこれはFDに入ってからより一層強く感じるところなんだけれども上流階級目線から庶民をあざ笑うような印象が酷くなってる気がするんだけどねえ。マリーカから始めたからそう感じるのか。貧乏人?男女?残念だねえ、完璧超人の私にゃ敵うはずないじゃんみたいな。下衆の勘繰り?クズの嫉妬?なんでしょうねごめんなさい。

 うん、勝ち組の、勝ち組による、勝ち組のためのゲームですな。
 誰得?
 大事なことだからもう一度言う、だ・れ・と・く?

 マジで死ぬかと思いました。ただでさえ春先で調子最悪なのに、リンパ腺が腫れてしんどい。いやあはぁはぁしちゃいました。やっぱりエロゲですから、はぁはぁしないといけないよね。でもできればもっと別の意味で興奮したかったですなあ。だめだ、怒りで震えが止まらない。それっぐらいプレイ中はイライラしっぱなし。寝床では寝落ちしながら画面見ずに声だけ聴いて癒されつつ、ストーリー追う時は声外してましたよ。音楽聴けなかった。もうエロゲはやめるべきなのかなあなんて思っちゃうけど、これ主人公合うやついるの?長距離弾道ミサイル作ってこいつの屋敷にぶっ放したくなったわ。「ねえワクワクさん、今日は何を作って遊ぶの?」「へへっ、今日はこれを作って遊びます。」(以下略)どうでもいいけれど、主人公はいちいち自分が性交渉経験者であることを宣言する必要はあるのでしょうか?プレイヤーと主人公とシンクロさせる効果狙い…それが一番妥当なところか。良くわからんね。
 マトモなコメントを残すと一応は非現実的な桃源郷的世界に浸る柔らかで未成熟な感性を持つ若い子向けということになるのでしょうねえ。絵がきれいだし、それで絵もテキストもエロいし、ガンガン射精ちゃってくださいなと。ただ現代っ子にそれだけの余裕があるのか甚だ疑問ですけれども。うん、まあ、この主人公とは何から何まで合わない、もっと言えばたぶんクリエイターとの相性が最悪だったんでしょうね。偏見は良くないって思うけど、家庭教師ルルミの時と似た感触。この地区の人間の特徴なんですかねえ?なんか妙に見栄っ張り感というか、上流思想が強い印象なんですわ。形式美にとらわれ過ぎてやしないか、なんて不満が出てくる。まあ、土地柄云々よりもはるかに個人レベルの問題なんだろうけれどもね。どうせこれ名古屋だよね。中京~三重地区は相場師の本場だからね。

 どこからツッコんだらいいものやら。学園モノなのに学園っぽさ全くなくね?っていうのはもういいよね。そこはまあいいや。ほんとは学園モノにしてはいけない、というのも扱ってるテーマを考慮すれば学園モノにすると弊害が生じるため。カンパニーをメインプレイスにしてそこで働いている人間という設定の方がはるかにいいと思うが、なぜこうしてしまったのか。それとカラーがつかめない。コメディでもなくサスペンスでもなく、かといってホームドラマのような温かさもない。
 所感としては、個人個人でテーマを持っていてそれに従うストーリーだが個別が短い。ワンイベントの山場だけでボリュームは短め。それならばキャラ半分にしてストーリー掘り下げてと言いたいが、諸事情があったのだろう。だとするならば、小難しい経済だのヤクザの抗争だののテーマは入れるべきでないでしょう。そういうネタは面白いがもっと現場主義に徹してナンボ。一応言っておくと、経済小説なんか読んでる人はわかるだろうけれど、経済関連の小説は現実の事件をオマージュしたものが多く、それを利用した形でまとめればもっと面白くなったはずだよね。例えば近年で言えば、村上ファンドの阪神電鉄買占めだとか、オリンパスの寝返り騒動とかね。(まあ自分としては、原田泳幸の迷走経営をネタにしてほしいところだけれどもね。どうやら銀魂で野々村ネタ遣ったら問題になったらしいね。)まあ高杉良とか清水一行とか広瀬仁紀とかそのあたりの小説家はいつも面白い。(実際には理解が追い付かず、なかなか面白いなんて言う批評を言えるだけの立場にないんですけれどね。ほんとにまあ、一冊の本をまとめるというのはもちろんそうだけれども、一冊の本を読みこなすというだけでも非常に高度な能力が要求される作業だと常々痛感させられている。)またこれは経済ではなく社会派なだけだけど個人的には夏樹静子も好きですよ。社会派女流作家の大御所と言えば先日亡くなった山崎豊子の方が有名だろうけど。でもまあ、確かに古いですけどね。自分結局懐古主義なもので。なかなか面白いネタは転がっているので研究したうえで対処してほしい。経済ネタというのは目の付け所としては大変面白いのだけれども。もっとも最近の経済小説はどうなっているかは知らないが、昭和時代の作家は面白い人が多い。当時と今とで技術革新の差は確かにあるけれども、いつの時代も人間の行うことなんて大差ないんだからね。
 あとこれはどうでもいいことだけど、競馬ネタは競馬キチンとやってる人じゃないとツボがつかめんでしょう。自分エロゲ好きでもエロゲ野郎の9割を敵にして、競馬好きでも競馬ファンの95%を敵にしていると思うから(正確に言えば、ファンではなくオタを敵に回しているだけだけどね、オタクって視野狭窄の自閉症の集まりだからねえ。)参考にはならんだろうけれども、競馬もまた現場主義ですよ。これは透子や瑠璃ルートで強く感じられることだけれどもやたら俯瞰的な見方が多く、物語というよりはただの説明になってしまっていますよね。「競馬とは何か?」「株とは何か?」ってそういう事物の説明なんかどうでもいいでしょう。大切なのは「競馬の何が楽しいのか?」「株の何が楽しいのか?」そっちでしょう。株の何が楽しいかってなるとちょっと難しいところで、そりゃ個人的な範囲で言えばお金儲けなんでしょうけれども、実際に「私こんなにもうかりました」の自慢話じゃあケンカ売ってるだけで、第三者向けの話として盛り上がらせるためには、仕手バトルなんかをこしらえるべき。アクションの少ないバトルという点では紙芝居に向いているしテーマとしてはいい線引いてるんだけどねえ。競馬にしたってロマンを追わなきゃ。血統は自分もよくわからんですが、名勝負には胸を打たれるものがありますよ。にしても、キズナ勝てなくなっちゃったね♪…って誰に言ってるだよ!そしてなんというティルナノーグ…。頑張るんだティルナノーグ。

<以下、どうでもいい愚痴>

 それで、いきなり妙なところからツッコんでおこう。この主人公、渚君はアルス・ノーヴァというレストランでバイトしてるんだよね。あの、エロゲで時々見るこの外食産業アルバイトだけど、あまり実りあることじゃないから感心しないんだよね。好きでそのバイトやってるのか、それとも頑張ってますアピールしてるのか。前者ならば何も言うことないですよ。ただ後者の場合はいけ好かない。(経済的必然性に迫られてこのバイトをせざるを得ない状況であるならば致し方ないことと言えるが、彼の場合はそうでない点が問題である。)このゲーム全体通して言えるけど、ヒロインとの時間を共有する楽しみよりは、頑張ってる自分に酔ってるナルシシズムに偏ってるよね。その点がすっごくイライラしてた。そのあたりは価値観の問題だからどちらが正しいというのはないけど、とにもかくにも自分が一番嫌いなタイプだった。なんちゅうか、さっきも言ってしつこいけど「何々とは何か?」ってやたら分析的な発言が多いのに必然性の議論に持ち込めてないのが気になる。
 渚君は「働くのは楽しい」なんて訳の分からないこと言ってるけど、せいぜいバイト仲間と愚痴ってそれっぽく思い込んでるだけだろ。昔と今とではバイトの扱われ方もまるで違いますからね。今のバイトはあれはホントに捨て駒。そんでもって客からもクレームもらって、それで楽しいと思ってるやつはむしろ普通に病気だと思うけどな。ああ、そういう風に洗脳する社長さんもいらっしゃいますよね。赤字転落してましたけど。

 もう学生のみなさんは就活は済んだかな。まだの人に言っておきたいけれども、就職活動の面接で「頑張った」アピールだけはやめてくださいよ。「私は誰よりも負けず嫌いです」的な。それはバイトの面接仕様なんですからね。
 こんなところで説教はやめろと言われそうだけど、気に入らない人は読み飛ばしていただきたい。就活の面接のテーマはずばり「10年後の自分」でしょう。35歳ごろの自分はどうなっているのか、ということを考えるところから始まるわけですな。そこでもひとつツッコんで考えると「35歳の頃、どんな自分になりたいか」という理想像を描いてみる。そうすると自然と「35歳の頃、『この会社に入って、』どんな自分になりたいか」という話になるのですよ。そこで面接先の会社についての情報を調べる必要が生じる。まずは業務内容について調べる必要が出てくるし、だいたい35歳の頃、昇進やポストの話も出てきているはずなので、会社の組織構成についても調べたくなる。そして志望動機が固まるのですよね。「私はこの会社に入って、これこれこういう仕事をして、こういう人間になりたいのです。なので、御社を志望いたします。」理想論でもなんでもかまいません。人事はむしろ理想を語ってくれる人間の方がありがたいはずです。一人カモが引っかかった、ぐらいの気持ちでしょうから。志望動機の次に何をするべきか。大学時代の自分の活動ですよね。まあ実際そこまで大学時代の活動と会社の業務内容がうまくマッチすることはないけれども、「大学時代、私はこれこれに興味を持って、こういう活動をしてきたのですが、そのうちに御社の仕事に興味を持ちまして…」と会社の業務内容とリンクする部分だけを応えればいい。別にバイトしてないならしてなくてもいいです。ビジョンを持って行動さえしているのならどんな放蕩生活でも構いません。会社にとって必要なのはビジョンを持った人間であり、ただがむしゃらに努力する人間はパート社員でいくらでも穴埋めできるのですから。
 してみると、いかにも「自分頑張ってます」アピールしてる渚君の行動は愚の骨頂とすら言える。こういう人間は自ら進んで負け組になろうとしているだけなんだけれども、渚君の場合は一生勝ち組コースから外れることはないだろうから彼の行動は嫌味とすら映る。まあ変な連中にだまされたりしたら一発アウトだから怖いっちゃ怖いけれどもね。勝ち組と負け組の境界線は「ビジョン」にあるという点は注意を払ってほしい。まあ、最も現代はロクにビジョンを持てるような経済力もなければ教育も受けられない子供がわんさかいるんだけれどね。

 そんなこと言ってもねえ、ビジョンなんかないよ、というのが本心かもしれない。次はこの作品で語りたかったであろう金融市場の問題点についても触れておこう。
 こんなことはバブル期にすでに指摘されているのだからかび臭い議論かもしれないが、資本主義は「社会は成長する」ということを前提において話を始めている。その根本が崩れた場合、すなわち社会が成長し得なくなったとき資本主義は機能不全を起こすのだけれど、今がまさにそんな時にあたっているんだよね。そうなるとどうなるか?無理やり虚業を起こして、それを実業(サービス業(笑))と言い張って、付加価値を形成させる。現代の問題はまさにその虚業が実業を脅かしているところにあるわけでね。この段階で労働というものが生産や社会貢献と同義でなくなって競争という意味合いになってきた。まあ市場を開放することで何とか焼き畑農業をしてきたわけだけど、いよいよもって社会が成長するという張りぼてが崩れかかってきた。
 透子の話でその虚業の最たる例である株式相場の話題が出ているけれども、株式相場の目的ってなんなんでしょうね。建前としては「社会の成長に最も適切な資産配分を形成する」ことなんだろうけれども、実際は「転がして儲けよう」ということでしょう。建前と本音が著しく外れている。そのような中で透子は中長期型の投資を行っているから正しいとか、そういう問題なんでしょうか?いずれにしてもキャピタルゲインを狙っているのなら同じ穴のムジナでしょうに。だったら仕手バトルでも起こしてファンドをなぎ倒し、稼いだ金を恵まれない人々に差し出す、天下の義賊、平成の石川五右衛門ここにあり、なんて感じの方が良かったのになあ。株式ネタを出すならあるいはIFRSの問題点(包括利益などという概念を導入して会社の資産をかすめ取ろうとしていることとか年金基金の算出方法を変えて会社の資産を奪おうとしていることとか)を出すのもありでしょう。あれなんか、市場の目的から完全に外れているじゃないですか。包括利益を導入して虚業を促進しようとする狙いは見え見えなのにね。それを突き詰めると会社は誰のものという根本的な話につながるし、最後は倫理を司る法律の話に持ち込めるんだけれども。そうすると、社会とは何か、労働とは何か、いろいろ考えてみることができる。

 さて、では資本主義は悪なのか?という点を考えてみる。これは八命陣プレイ以降ひたすら頭の中でめぐっていた問題だったんだけど、最近ようやく分かったのは資本主義がどうの社会主義がどうのじゃなくて、人間が性悪だから資本主義を選択せざるを得ないということです。
 そもそも性善説であればすべての概念は必要なくなります。警察もいらないし、法律もいらないし、国家なんてフレームを作る必要もないはずです。
 性善説の立場においては人間は究極的な社会的存在であることが求められます。己の願望を押し殺してでも社会に奉仕する姿勢がなければ善とは言えません。けれども人間、実際にそんなことはありません。疲れたら休みたいし、自分の苦手なことは避けたいし、できればずっと楽しく遊んで暮らしたい。人間が本来怠惰な存在であるということは科学技術を選択したという人間の歴史が何よりも雄弁に物語っているでしょう。さらに簡単なところを言えば、労働に関して人気不人気の傾向が顕著になっており、明らかに労働に貴賤あり、そう断じられる時点で性善説の根幹は崩れていると言えます。もしも人間の性質が善であるならば、他者の嫌がるようなきつく汚く危険な労働に進んで参加するはずだからです。けれどもそのような現象はまずもってありえない。
 結果的に人間の根源の性質は我欲にあると見なせる。したがって種々の規制を設けない限り、個々人は最低限の労力で最大限の欲求を満たすように行動し、闘争が起こり始めます。そしてすべての闘争は法律が存在しない限り正当化される余地があります。なぜならば、我々は生まれてきた段階で不公平なスタートラインに立っているからです。その無秩序状態を防ぐためにも、実際の社会においては法律などの概念は存在している。
 人類は資本主義を選択しています。社会主義においても、資本主義においても、人間の性質が我欲にある以上、競争原理は働きます。ニワトリの社会でもイヌの社会でも同じだけれども、競争と平和の妥協案として支配―被支配の構図が形成されるのです。そのような中、権力を直接奪うことで社会の支配者になれる社会主義よりは、労働力の対価として得られる財産を根拠に社会の支配者を決定する資本主義の方が大衆に受け入れられるのは、ある意味必然的な流れとも言えます。
 さて、ここで考えてみたいのは我々の思想です。我々は今、消去法として資本主義を選択している。しかしその資本主義は「社会は成熟する」という前提の破綻によって存立し得なくなってきている。そこで求められているのは資本主義でも社会主義でもないサードアンサー。いや、それはいつの時代でも求められ続けた答えなのですが。
 ところで、いつも自分などはいつも思うのだけれど、なぜこれだけ供給過剰である、モノ余りであるにもかかわらず、貧乏人が存在するのかというパラドクスを抱えているのか。結局は相互不信なんでしょうね。資本主義というのは成算主義であり、個人主義であり、利己主義である。自己責任を要求し、それゆえ他者への施しは慎重になる。もしも金持ちが貧乏人に還元したら貧乏人は単に働かなくなるばかりか、むしろどんどん求めるだけ求めるようになるのではないかと不安になる。だから健全性を保つためにも貧乏人への慈善行為、いわゆる福祉を限定する。これは残念ながら現在のドイツとギリシャの関係を見れば証明されてしまっています。従ってモノ余りの中に貧乏人があふれるというパラドクスが生じてしまう。
 これは単純に供給過剰という現象が根源となっている病理ですよね。供給量が少なければ、ギリシャはとるものも取れないし、ドイツも自分たちのところに消費を回すので精いっぱいになるはずですから。生産する側は消費の機会を与えられずに、消費する側は生産の現場に立たされない。そういった歪みを解消するためにも世界的に労働の基準を改めて見直すことも大事でしょう。週休3日制とかどうでしょうか。生産と消費のバランスを保つためにも必要だと思いますけどね。もちろんそんなことしたら土建屋とかが困るということで話がまとまらないんだろうけど。法律や規制は絶対多数の最大幸福のための概念でしょうに。金融市場?あんなものは365日24時間開いていて構いません。まあ金融市場なんてのは一種の戦場みたいなものだから「休戦協定」を結ぶのもありかもしれませんが。

 この作品は学園モノなんだけれども、せっかく学園モノを作るのなら近未来のモデルとなるような学校を描いてみるのも一考かと。自分は子供の頃から己の無知を恥じているけれども(というより物事について知らないのか理解できないのか、そのあたりも難しいのだけれども)、最近はいろいろ勉強してきて世の中の仕組みなんかも若干ながらわかってきて、やはり教育というのは大事だと思っております。
 いつも思うのは教育の目的なんですが、これは子供たちが大人になっても食べていくためにあるのでしょうか?それとも教養を身に着けるため?もっとも簡単な答えは「大人になった時に困らないため」なんでしょうけれど、だったらなんで国語や算数を学ばせる必要があるのか?この表現は個人的に大変気に喰わないものだけれども、大人になるということは社会の中の一員になるということでしょう。だとすると、社会が変容しているならばその分教育の内容も変えていくべきなんですよね。でもそれをしない。もっと言えばできない。しかも教育の内容を変えるなんてのは利得の観点からすればとんでもない。予備校ビジネスが成り立たなくなる。
 昔はね、識字ができればいいとか、演算ができればいいとか、その程度のレベルさえ習得していれば世の中生きてこれたのかもしれませんが、今の時代はどう考えてもそれだけで生きていくのは難しいですよね。じゃあ英語でも学べばいいんでしょうか?それも違う。グローバリゼーションの最中において必要なのはどう考えても英語ではなく世界史でしょう。ほかの国の言語を知ることも大事だけれど、それ以上に文化を知ることの方が世界を理解することにつながる。それに歴史は楽しい。どの国でも太古の時代から伝わる伝承が神話として存在していて、ロマンをも感じ取れる。それでちょっと脱線するけど、本来なら神話というのは神様の話というぐらいだから気位の高いやんごとない話になるはずだし、それこそ聖書なんかは道徳の教科書としても通用しそうなのに、そこに来ると日本の神話を語った古事記というのはあまりにもひどい。腹立てて家にウンコ投げつけたとか、裸踊りで相手をおびき寄せたとか、使いを出したら相手に籠絡されたとか、お前らほんとに神様なのかと突っ込みたくなる内容が満載。それで日本は日本史というものを教えにくい事情がある。けれどもすべての学問は歴史に帰結するのですよ。だってそうでしょう、物理だって物理史を学んでいるのだし、化学にしても然り。生物を選択した方はより顕著に感じられるのではないでしょうか?今でこそ分子生物学が発達しているけれども、ワトソンとクリックが遺伝子の二重らせん構造を発見したのは1953年。戦前の生物の教科書なんて恐竜の骨とかそんなのばっかりだったようで。世界大戦前後の発見で教科書の内容は著しく変化している。尤も進化の過程だってダーウィン以前は信じられていなかったのですからね。昔はイヌは初めからイヌとして、人は初めから人として作り出されたのです、神の意志によってあなた方は人間として生を与えられたのですって教えられていたんですからね。歴史を学ぶつもりで学問を学ぶという姿勢は重要ですよ。
 それと必要とされるのはコンピュータ技術でしょう。もちろん科学技術一般はすべて勉強していて損はないけれども、取り分けてもコンピュータは現代社会の主幹部分となっている。アルゴリズムとかねえ、あれだけやっとけば数学なんて必要ないでしょう。もちろん古典数学はそれはそれとして学ぶ必要もあるでしょうが、社会的な必要性という観点からすれば古典数学よりも情報科学を学ばせるべき。自分苦手分野なんでこのあたりは良くわからなくて困るが、情報科学というのも面白いんですよね。すべての演算を一つの行為にしてまとめたチューリングマシンの行動とか、我々が使っている言語を機械的に直すためにはどうしたらいいのか考えてくるとそのうち論理学などに行きあたるので文法の話とかも自然と勉強できるようになる。そうすると、美観の観点からのいわゆるポエムとしての国語を学ぶ機会が失われるという向きもあるだろうが、それはそれで別個科目を設けたらよろしい。今だってロクな国語じゃないだろ。そもそも現代でまともな小説やら論説文を書ける奴なんか一人も知らんぞ。国語なんか教材そのものがねえじゃねえかっていう。後は情報科学というと、オブジェクトとストリームの関連性とかはひいては生命科学にもつながるような分野ですからね。大変興味深い。
 グローバルな時代において、また飽食の時代で、自己実現を目標とするためにはビジョンが必要であり、そのビジョンを描くために教育は必要とされているのだから、教育の内容もきちんと見直してくださいよお役人さんというお話でした。歴史を学ぶことによって現代社会の問題点を導出する能力を養い、技術を学ぶことによってその問題点を解決する能力を養うことができる。この両輪が組み合わさることで、社会貢献に対するビジョンを形成することが可能になる。現代の子供たちは社会貢献に大変飢えています。猿みたいに女とヤルことしか考えていない教師たちの世代とはまるで違っております。にもかかわらず、何も考えずに日々を生きてきた愚図な親から理不尽にも怒られる。現状の教育では社会に出ていくための方針を教える役割を担っていません。誠に嘆かわしい。…ま、学園モノを手掛ける人間にもヒントになってくれればいいんだけどね。ならないだろうけどね。

 もちろんね、教養として図画工作や書道や美術も絶対必要です。人はパンのみに生きるに非ず、精神活動を十分に楽しむことができてこそ人生最大の目的である幸福に到達できるはずなのですから。この話では玲が音楽について語っていますからそれについても語らせていただきます。
 いやね、自分クラシックとか完全にバカにしておりました。教養ぶってるだけで何にもわかってねえだろ、カッコつけてるだけだろ、ゲロっちゃえよ、ってな感じで。けれども最近宇野功芳氏が著した「交響曲の名曲・名盤」という本を読んでから、クラシックの楽しみ方が少しでもわかった感じがします。この本には、胸が締め付けられるとか、ところどころ白髪三千丈もいいところだろうが、などと毒づきたくなるような大仰な表現にも出くわすのだけれど、今まで音楽なんて作った人がいて、編集する人がいて、とだけ考えていたのだけれど、指揮する人が如何に曲を演奏させるかというのもまた大事だということを知りました。フルトヴェンクラーとかクナッパーツブッシュとか、そういう指揮者の名前を頭に入れながらクラシックを理解しようとか考えてる最中です。今の時代に照らしてみると、指揮者の役割は作曲家に対してアレンジメントを施す人間と同じような構図だと思う。宇野氏は現代音楽を原譜主義という点で悲観的に感じているようだけれども、確かに人間の思いのこもってない芸術ほど悲しいものはない。専門用語でいうとルフトパウゼとか、ポルタメントとか、まあはっきり言って自分も知ったかぶって言っているだけなんで実際にどういうものなのかわからないけれども、そういう演出を施すことで同じ曲でも多面的にもちろん作曲家には作曲家の、それに対して、指揮者は作曲家の意図を指揮者なりに理解し再構成して、最終的に聴衆に差し出される。
 この人と人との思いが交錯して化学反応を起こして出来上がった唯一無二の作品と出会えることに我々はかけがえのない喜びを見出すのですよね。我々はしょせん有限の生の時間しか与えられていない。せいぜいその時間を楽しむなら精一杯人間の思いのこもった芸術と触れ合うことにこそあるなんてのはつい考えてしまうけれど、その発想自体が退廃的ですよね。しかし芸術作品というのはその退廃性とも関わりが深い。作品は一種の永世願望を仮託したものというようにとらえられる。作品の永遠性によって、作家の永遠の命が間接的な形であれ認められることとなるのです。
 それとクラシックはそれこそ世界史を学んで背景知識を入れておかないとまるで分らない。神話が題材になっていることも多いので必然的にそういう方面の勉強もしなければわからない。いやね、クラシックが好きでーす、って言ってる奴らの何割がきちんと物語の背景を理解しているのか、そこが気になるんだよね。何もわかってないけど、なんとなくクラシック好きな私素敵、みたいな感じでぶってる人もいるんじゃないかと。直感で好きになれるほどわかりやすいものじゃないと思うけどなあ、こういうのは。自分はゲーム音楽でいいです。あれなら直感でわかる。今も自分これ書きながらようつべでパワプロ14の神宮大会決勝戦のテーマ聴いてます。このトワイライトな感じがたまらなく好きだなあ。20世紀の残り香が…ああダメだ、涙が出てくる。懐古厨でごめんなさい。

 それで、んな呑気なこと言ってんじゃねーよバカたれが、という意見が当然出てくるはず。そう、芸術なんて所詮は余暇でしかなく、余暇のない人間はどうしようもない。それが現代ですよね。
 かつての作品は永続的な存在である一方、商品としての作品はしょせんは消費され忘却される存在である。まあ中にはフリークによって永遠的に愛されるような商業作品も存在するが、基本的には消耗財としての性格が強い。さて、作品にその永遠性が生じるかどうかの決定要因はまさに作品を理解しようとする心=作品とコミュニケーションしていこうとする心にあるのではないでしょうか。
 現代社会において、コミュニケーションというのは無用の長物であり、最低限の確認さえ出来れば後はお互いがお互いのパーソナルスペースを犯さないように生きていくことが要求されます。これは単純に我々が自分以外の何かに対して関心を持つことが少なくなってきたからでしょう。自分以外の対象に関心を持つだけのゆとりを与えられていない環境もその一因ということかもしれませんが、その一方で20世紀末において飽食の時代を迎えた我々は氾濫する情報の洪水の中に生きていくこととなり、自主的な精神活動を行う余地が少なくなった。情報の洪水の中、多くの人間がそれでも芸術に対する関心を持ち続けてくれればよかったのだけれど、残念ながら多くの人間は芸術を消耗品としてとらえるようになってしまった。
 芸術に対して最も大切なのは対象に対して感動する心だと思う。世界には自分以外の存在もある。すなわち自分が経験しえない、自分の持っていないものを持つ人間がいて、彼らの経験や能力によってつくられた作品と出会うことができるのはこれほど楽しいことはない。創作者の想いというのは、言うなれば創作者の人生の系譜と言ってもいいだろう。そういう作品に触れあうことによって自分はまた、自分以外の人間の人生をも歩んだかのような満足感が得られる。そうすることで、一人の人間が何人分もの人生を味わうことができる。これこそが芸術の存在価値と言ってもいい。
 しかし、消費者として持ち上げられた人間は、最後まで自分の人生は自分のストーリーの内側で、つまり自分以外の人間を引き立て役として扱うことになる。創作者の思いだの経験だのそんなのは全く興味ない。(そうでない人間もたくさんいることは良くわかる。自分もそうなれなかった側の人間だし。)そのような人間にとって芸術作品はあくまでアクセサリであり、マストアイテムでしかない。このことは非常に大きな意味を持つ。宇野氏の見るような芸術作品はあくまで作者の意図を掘り起こそうとすることが目的であるのに対し、現代的ナルシストにとっての芸術作品はあくまで自分にとってどういうものであるかが大事であって、そこに作者の意図を読み取ろうとする意志は全く感じられない。
 芸術作品が商品として流通される時代になってから、このナルシスト的な構図は成立する。あくまでの消費者主体に芸術はつくられるのであって、作者が口をはさむ権利を持たない。かくして芸術は堕落する。コミュニケーションは堕落する。そしてそのコミュニケーションの堕落を誰一人指摘しない。指摘できない。
 消費者主体で商品化された芸術というのはどのような現象を引き起こしたのか。これは科学技術の進歩と軌を一にしているのだけれども、芸術価値基準の画一化であり絶対化である。それは量産型社会において常に問題とされることであるが、これはまた言い換えれば芸術の「直観化」でもある。予備知識もなしに、直感に訴えることができる芸術こそが至高とされるようになった。なぜそうなのかと言えば、芸術の価値が売り上げによって評価されるようになったためである。つまりできるだけ多くの客の心をとらえる作品こそが最上の作品とみなされるようになり、そのために予備知識も必要としなければ思考する必要もない「誰にでも受け入れられるような」芸術を最上とするゆがんだ理論がまかり通るようになってしまったのだ。
 ただ、もっともこれは我々が現代技術を芸術の分野において使いこなせていないだけ、まだまだ現代技術によっておける芸術の鑑賞者として未成熟の段階にある、と考えることもできる。我々は3Dグラフィックの美しさだけで満足することができるが、それはまだそのような芸術形式に慣れていないためであり、ただ単にどのようなグラフィックであっても美しいと思ってしまうほどに芸術感覚が発達していないというように解することもできる。これから20年、30年と経ていくうちに人間が現代技術に慣れていけば、単なるグラフィックだけでは評価されず、そこに歴史的背景その他を盛り込んだような芸術を求めるようになるのでしょうね。

 さて、なぜこのような前置きを置いたかというと、次に恋愛の話をしたいからなんですけれども。
 物質文明華やかなりしころは恋愛なんて企業合併と同じく物質的な部分による評価が大きかった。そのような、つまり他者をモノとしてみるような時代の恋愛においては恋愛というのは所詮打算の産物であり経済的行為に過ぎなかった。恋愛の対象を「自分にとって何をもたらしてくれるのか」という観点でしか見ずに、相手のことを知りたいなどという対象に対する関心などつゆほども存在しなかった。物質的な時代においては、恋愛の対象である人間もまたものでしかないので、飽きれば取り替えればいい。そのころの感覚としてはまさに「不倫は文化」だったんでしょうねえ。
 それは今の時代は考えられない。交際トラブルで殺人に至るケースのほとんどは事実上の金銭トラブルだと言われているように、いつの時代でも恋愛は経済行為とは不可分である。そのような中に一億総下流の時代がやってきた。結局交際に時間とお金をかける余裕もなければ欲求すらないというのが現状でしょうね。女の子とデートしてて楽しい、ってそりゃ宣伝しますよ。でもネットによる「事実」の拡散によってマスコミの魔法は溶けてしまっているんですよね。失敗が許されない社会である以上、相手に求める信頼性はかつてに比べ格段に大きくなっている。裏切られた時のショックというのは精神的に大きいのではなく、時間的経済的に大きいのであって、恋愛という行為のいわゆる「貸し倒れリスク」は半端ない。
 現代の恋愛事情はそれゆえに信頼性の世界、そうでなければ精神性の世界ということができる。時間的な側面に限れば恋愛によって成就されることもあるだろう。つまり恋愛をしている瞬間だけは幸福感を充足することができれば、時間的な損失を被ったとはならない。
 ところで、そのような恋愛における幸福を与えるにはどうしたらいいか。愛を持つこと、と簡単に言えばいいが、愛を持つとはどういうことなのか、そこで先ほどの芸術の話とリンクしてくる。愛を持つとは、恋愛をしている相手、対象に対して感動する心を持つことです。
 愛を与えるということはその対象が唯一無二の存在であることを、それだけ尊い存在であるということを気づかせてあげる行為です。相手の存在が尊いということを気づかせることは、すなわち我々は生まれてきたことに意味があることを証明することと同一となる。このような愛の行為は決して男女間に限られた行為ではない。そのように愛を与える行為はたった二人だけの秘密になっていくことで、愛はより緊密に二人だけのものに成熟していく。その二人の時間が長くなっていけばいくほど、愛する相手がかけがえのない存在になるわけであって、したがって生涯の伴侶としての唯一性も濃くなっていく。ここに恋愛が結婚に結び付く構図が成立しているわけなんですね。
 本来ならそのような純粋な対象に対する敬意であった愛という概念を飽食の時代が単なる快楽に変質させてしまったんですよね。時代の趨勢に乗っかって楽しただけのゴミクズがバブル女を作り上げたということを罪に思わないのでしょうか。あの時代において、所詮男は棒であって、女は穴にしかすぎません。軽蔑が過ぎると言われるかもしれませんが、これでも言い足りないぐらいです。それぐらいに侮蔑の念を禁じ得ません。さっさとタヒねよゴミクズどもが。同じ空気吸ってるだけでも気にくわない。まあね、結婚と恋愛は別というのなら構いませんよ。結婚する側は恋愛と別と割り切れるだけの要素、それは八命陣で書いたような能力であり財産であるけれども、そういったものを何か持っているのであれば引く手あまたでしょうから。そうでない、ただ単に好き放題遊んでいただけで過ごしてきたゴミを誰が相手にしますかね?まあ、せいぜい「男は女を求めるもの」というような前提ありきで話をしているんだろうけれどもさ。
 そこで登場するのが瑠璃先輩ですよね。彼女は女の子っぽくないってコンプレックスを抱えていた。でもね、ほんとに女の子っぽくなかったらウェイトレスやらせてもらえないと思いますがね。最近はさすがに自分で「女の子っていうのは~」というような人もいなくなりましたね。自分で女アピールするの痛くね?ってことなんだろうけれども、ほんとにもうね、「女の子っていうのは~」って自分で言う奴は男であるとか女である以前に人間として破綻しているケースが多い。まずは人間性を養ってから女の子を語ってほしいものですよね。なんでも正当化するだけで常に自分を改善しようとしないゴミは相手にするだけの人間性を持ち得ていないんだから。そこに行くと、瑠璃先輩可愛すぎでしょ。自分について内省的になることは損するだけですよ。そもそも女を女として扱うかどうかは相手の男の側によるわけであってねえ。女の女の子を部分を引き出すのも男の役割なんじゃないの?ユング心理学でそういうこと書いてなかったっけ?

 さて、マリッジというだけあって結婚の話ですね。花純の話では、格差のある結婚についても言及されているような感じですね。まあこれについて触れるのは偶然にも自分が恋DOKiで書いたからなんだけれどもね。まあ、なんであそこであんなこと書いたかっていうと、まさに自分の両親があまりにも社会階級こそ差はないんだけれど、価値観が違いすぎて、はっきり言ってこの時代の結婚なんて所詮経済行為の延長だったんだろうとは思うが、なんにせよ結果として家庭がぎくしゃくしてしまっているんですよね。
 久美が言っていたけれど、突然財産が入ることで人間が変わるというような話をしていた。これは実際にありうるパターンで、だから格差のある結婚がよろしくないというのもわかる。ただ実際このゲームのように著しい格差のある結婚というのは例として少ないだろうから、もう少し一般的な話をしてもらいたかった。
 ではどんな人間であったら結婚の条件を満たすか。やはりそれこそビジョンの問題だと思います、自分自身が自分なりの目標を建てながら生きるような人間であることが大事なんだと。これは初恋サクラメントというゲームで書いたことなんだけれども、「人にないものを求める」ということは、自分にはないものであって、相手に倣うようによって自分も獲得したいというようなものを求めるということであって、財産や能力という意味ではないです。それを自助努力によって求めようとするならばわかるけれども、そうでなく単純に恋愛の対象になることによって獲得しようとするのは恋愛を打算とみなしていると考えられます。恋DOKiでの感想において処女信仰云々語ったけど、だからそれは先述したのと同じように「この人の子供を作りたい」と思わせるだけの人間だったらその遍歴など何も問われないでしょう。現実は逆だけれどもね。どんな遍歴であってもこいつとの間に子供は作りたくねえって思わせる人間はわんさかいてもだな、その逆は見たことない。
 子供は親の背中を見て育ちます。自分のところはそうでなかったんだけれど、小学校時代、自分の友達の母親は毎日家の掃除をしていたらしくとっても綺麗にしていました。それとまた、その友人の母親はピクロスが好きだったようで、自分の持っていたマリオのピクロスの最終難題(ワリオのピクロスの25×20のあれね)まで解いてしまいました。そのように自分なりの目標を立てて、小さな目標に自分の意志で到達する心を持った人間はまさに家庭的な存在として重宝されるでしょう。理想的な家庭的な人間というのは、他人から評価されることを求めず、ただ己の目標を淡々とこなす人間なのだということを教えられましたね。子供に理想を求めず、ただ自分の姿を鏡として、標本として、子供に手本を見せるにとどめる。まあその家庭の本当のところは知りませんよ。
 その対をなすような人間、自分はちっとも努力をしないくせに「子供に夢を託す」など理想ばかり掲げる虚栄心ばかりが先行する人間は最低最悪のゴミクズです。ってそれはうちの家族のことなんだけれども。ただうちに限らず、実際に自分が努力せずに成就できなかった夢を子供に託すことで叶えようとする反吐が出るようなゴミ女が多いのも事実です。あきれますよ、子供に期待するだけして、自分は何もしない。何かあったら学校の先生に「お前の教育がなってない」って怒鳴りこむわけでしょ。そんな奴ら、生む機械以下だよ。ヤル機械じゃねえか。
 子供は手段でなく目的でなければなりません。その存在自体が尊いものとされなくてはならない。他力本願型のゴミ遺伝子を持った女に限って子供に夢を託すような家族計画を策するものです。はっきり言ってそのような人間のもとに生まれた子供は不幸になるだけです。けれども親は子供の不幸に気が付きません。子供なんて所詮自分の欲望を満たす道具にすぎず、子供の感情なぞに関心はないのですから。
 まあ、現実にはその程度のことも考えずに快楽の産物として子供を作っちゃう野良猫のような人間が多いのも事実なんですが。あんな奴らに福祉を与える必要はあるのだろうか?一人っ子政策じゃないけど、子供を育てる余裕もないのに作るのは十分な犯罪行為に映るんですけれどもね、個人的には。

 以上、分析的な発言が目立った作品だったので、対抗して様々な概念を分析して書いてみました。まあ分析というのは一種の本質への追求であって、本質とは何かと言ったら当該概念の唯一性、すなわち必要十分性に帰着されるんですね。などと小難しいことを語ってしまいますが、付き合ってくれた方々へ、長ったらしくてすいませんでした。まあ絵とかその他もろもろは誰か書いてくれるでしょ。