共通六話。個別が三~四話。テーマがいろいろありすぎて困る。なるほど、こうやって万人向けにする方法もあるんだな。これは女性向け?人によって捉え方は様々。個々人で気になった部分を感想に書けばよろしいかと。収拾つかなくなって強引にまとめ綻びが生じたとはいえ、非常に深い内容。ラスト急失速は残念。少女天獄と同じでハードルあげすぎ。おまけにクソ真面目に論理的に説明しようとしたからどんどん深みにはまった。設定の破綻は目をつむる。構成こそはっきりしているとはいえ、純粋に難しい。晶→歩美→鈴子→水希の順でクリアが無難かな。説教くさい部分ははあくまで理想を謳う一種の厨二病と割り切ってしまったほうがいい。長文脱線しててごめんなさい。でも無関係ではないはず。
<あらすじ>
時は大正。舞台は鎌倉。ここに邯鄲法を極めた男がいた。物部黄泉と柊聖十郎。
柊聖十郎。彼は誰にも勝る英知を有しながらも体が弱く、性質は天上天下唯我独尊、酷薄そのものであった。そしてその命の灯はまさに消えかからんとしていた。彼はそれでも生への妄執をたぎらせ、ついには邯鄲法を獲得するに至る。邯鄲法とは、盧生の手によって自らが見る夢を現実に持ち出すことができるという法術を指す。物語においては、普遍無意識の奥にある神魔の概念を現実に引きずり出す法であると定義されている。彼はさまざまな被験体を用いて邯鄲の実験を行ったがうまくいかなかった。しかしようやく甘粕という成功者をつかむに至った。甘粕が邯鄲の攻略を成し遂げたという報を受け取って、聖十郎もまた邯鄲の中へ入っていく。ここでややこしいのは、夢を現実に持ち込むことができるのは盧生であり、邯鄲法を考案した人間ではないということだ。もちろん邯鄲法を編み出した人間が偶然にも盧生の資格を持つということもありうるだろうが、残念ながら聖十郎は盧生の資格を持つことはできなかった。盧生になる資格のある人間は、皮肉にも彼の被験体である甘粕と彼の息子にあたる柊四四八の二人であった。彼は生まれながらにして「盧生」ではなく、「盧生になる資格のある者(日商簿記試験1級合格者的なノリだなw)」であり、邯鄲を達成して初めて盧生になれる。そして「盧生」でなく「盧生になる資格のある者」だけが、直接的に邯鄲へのアクセスできる権利を持っている。ほかの人間は邯鄲アクセス有権者を媒介として、彼らの眷属として邯鄲に入り込むことが可能である。つまり邯鄲に直接アクセスできる人間は聖十郎の許可が必要で、直接アクセス有権者の眷属は直接アクセス有権者の許可がいるという構図になっているらしい。ああ、ややこし。(なんだか物語の最初では、アクセスするためにはアクセス元となる人間のアイテムが必要とかいう設定があったが、それはあくまで仮想現実において四四八たちが思い込んでいることであり、実際にその必要があったかははなはだ疑問である。)そしてここで書いておく必要があるかはわからないが、盧生の有資格者は邯鄲の中で死ねば終わりだが、眷属は生き返ることができる(という設定だった、過去形)。
時は迫っていた。間もなく甘粕は関東大震災を引き起こそうをしている。戦真館を持つ辰宮家は焦っていた。甘粕を討つべく、聖十郎と交渉して彼の息子・四四八とその仲間を邯鄲の中へ入り込ませた。ここもややおかしな話で、人を邯鄲の中へと入りこませることのできる人間は聖十郎だけである。しかしながら、聖十郎としても盧生になる資格のある四四八が邯鄲の中へ入ることは好ましい状況である。彼には、人の肉体や精神などの要素を奪う能力を持っている。これは彼の「すべてをものとみなす」性質が具現化した能力ということだろう。その能力を使って四四八の盧生という性質を奪い取り、夢を現実にすることで己の寿命を長らえさせるというのが彼の目論見である。
しかしながら、壇狩摩という異分子が引き起こした錯誤により、四四八一行は記憶を失って、どういうわけか100年後の未来を過ごしつつ、のんびりと邯鄲の達成に向かうことになる。彼は甘粕と対峙するまでに5週回のルートを回る羽目になる。本来なら、盧生の有資格者である四四八は死んでしまったらそこで試合終了のはずである。けれどもこれもまた呆れるほど都合の良いことに、壇狩摩の起こしたエラーにより生き返ることができるようになっていたのであった。このエラーは直接的には世良水希が起こしたことになる。本来ならば盧生の有資格者が死ねばその眷属も死ぬのだが、団琢磨の引き起こしたエラーによって世良水希は生き延びて、その間に時間逆行という彼女の能力を行使することによって四四八が死ぬ前の時間まで戻ることになった。こうして四四八君は生き残ることができた。だから何でもアリなんだよ!
晶と過ごした100年(なぜその起点が21世紀なのかという疑問は大人のキミは出してはいけない、この辺りはいろいろ破綻してる、初めは時間がたっても老いというものが来ないのかと思ったが、晶ルートを見てるとあの話のあとに50年以上過ごしてることになるから最低でもあのルートののち50年はある。水希ルートで普遍無意識が100年後の世界、と述べているが、1週というのは何年だったのだろうか、それともほかにうまい解釈があるか)、歩美と過ごした100年、鈴子と過ごした100年、その3ループとあとなんだかわからない1ループを経て、ようやく本題である甘粕攻略の道へ向かう。
甘粕はある種の求道者である。己の勇気を存分にあふれ出させるような生の瞬間こそ至高であり絶対的に正しい存在とみなしていた。ぬるい日常を緩慢と過ごすような人間は堕落しているものとみなして許さなかった。彼はそのような己の思想を尊重しすぎ、他者にも己の思想を強要した。己の思想こそが絶対であると、己の思想に従うこそが幸福であると信じて疑わなかった。これは言い換えればすべての人間に対して、己の夢を押し付けることであり、突き詰めればすべての人間を邯鄲の中に誘い込むことによって成就する願望である。それこそが彼の言う「楽園(ぱらいそ)」である。
甘粕は盧生である。盧生ができることは二つ。一つは夢を現実に持ち出すこと。もう一つは夢を夢の世界に閉じ込めることである。彼はすべての人間を邯鄲の世界へ誘い込むことを狙い、実際に試みた。本来ならば邯鄲を制覇しなければ盧生になれないのだから、盧生でない以上夢の力を現実に持ち出すこともできない。けれど、彼は盧生でいない身でありながら一瞬とはいえ夢を現実に持ち出すことができた。その結果として現れたのが、大正三年の桜島の大噴火、秋田の大地震、大正六年には東日本大水害などという災害である。こう書くと、聖十郎は死にかけてから最低三年は生きていることになる。晶ルートでは聖十郎は死にかけてから10年は生きたという記述もある。
さて、その一方で四四八である。すべての層を乗り越え、晴れて盧生になった彼は大正時代という現実世界に戻る。しかしながら、そこは現実と言いながらも、甘粕が一部の夢を持ち出したのちの現実であり、(我々からすると)さまざまな超常現象が許される世界になってしまっている。そして百鬼空亡や神野明影、甘粕という「敵」と最後の戦いに向かうのであった。
別方面では、世良水希の物語が展開されていた。水希もまた、四四八を媒介として邯鄲にアクセスしたのだろう。彼女は弟の気持ちに真正面から向き合うことができないで、弟を絶望へ追いやってしまったことを後悔している。神野明影によってその記憶だけを植えつけられて何度も世界をループさせられている。このゲームのプロローグの部分はこの水希に植え付けられた記憶を語っている。彼女は途中(どこだか忘れたわ)で戦真館の人間と分かれて、最後に神野にやられる運命の輪廻を繰り返していた。水希の話にアクセスしたとき、彼女もまたこの悪夢の輪廻から解放されて現実に戻ることができたのであった。めでたしめでたし。
<考察>
戦の真は千の信に顕現する。
この言葉の意味、わかりますか?よくわからないんだが、強い祈りが力になり、想いを研鑽することで己の真理を気づきあげることができる、ぐらいの意味かな。誰も傷つけたくないという晶の思いが回復魔法につながり、すべてを砕くという淳志の思いが重力増加という魔法につながり…それぞれのもつ強い思いを祈ることで戦の真が顕現する。この物語は己のアイデンティティとレゾンデートルを賭けた、仮想世界と現実世界が混濁した一戦記である。
夢には理想という意味と睡眠中における幻覚という意味がある。我々はなぜ夢を見るのかということはまだわかっていない。夢と集合的無意識には何かしらの関係があるらしいし、この作品でも何かしらの引用はあるのだろうが、まあそういうのはここでは専門家に任せますわ。
「理想である」夢を、「幻覚である」夢の中で制御できたらどうなるか。これがこの物語の舞台において大きく寄与する設定ですよね。イメージの具現化というやつですね。理想と言えば聞こえはいいんだけれど、欲望と聞くと途端に悪そうな感じになる。結局、我々は何かしらの欲望を持つ。欲望を持つという現象自体は普遍である。その中でも人間という動物は高度な知能を持つがゆえに複雑な価値観を形成する。それ故、様々な衝突が起こる。動物だって一つの餌を取り合ってけんかをすることはあるだろうが、人間の場合は理性に基づく衝突を起こす。人間というのは「社会」を形成する能力のある生き物なのである。
人の思いは様々で、何が正しくて何が間違っているかなんてわからないはずである。けれどもそこには確実に優劣があって、その中で究極的に客観性の高いものを普遍無意識と定義しているのだと思われる。そこには人間の根源的な欲求と理想が存在する。四四八のように第八層に到達することが悟りを開くということであり、悟りを開くことが普遍無意識を「獲得」するというのであれば、それは絶対的な客観性を持った人間性が求められるということになる。ただ、この作品においては盧生になる条件を普遍無意識を「獲得」するとまでは書かれておらず、もしかしたら普遍無意識を「認識」するだけでいいのかもしれない。こうなると、単純に普遍無意識という概念を理解するだけでいいのだから、普遍無意識に束縛されることなく自由意思のもとの主観的な行動が認められる。ただラストバトルでは普遍無意識を行使しているように見えるので、やはり盧生の行動は普遍無意識に束縛されると解釈しちゃうんですけどねえ。あくまで直観的なとらえ方で論理的な根拠なんてないんですが。
どういうことなのと思って物語を読み返していたら、ここでは普遍無意識の概念をうまくすり替えてるんですよね。言い換えれば普遍無意識の定義を一般的なものから、この物語の中でのみ適応できるものに再定義した。本来、たぶんユング先生なんかは普遍無意識をいろんな人間が共有する潜在意識であるという定義をしていると思うんだけど、アラヤは四四八に向かって「誤解しないでくれ、私はあくまで柊四四八にとっての阿頼耶識(アラヤ)。そうでなければこうして会話もできるわけなし」とか、普遍無意識の意味を根底から覆すような発言をしだしやがりました。つまり四四八にとってのアラヤと甘粕にとってのアラヤは異なるものということなのか。個人に限定される時点ですでに普遍性を失ってるんですけど…もうむちゃくちゃだな。あるいはここは、アラヤという絶対存在に対して、個人の主観が入り込むことで干渉されて、個人によっては異なる存在になってしまうとかそういうことなのかな。このあたりが、普遍認識は「保有=獲得」するものなのか、「認識」ですむものなのか。一度習得すれば、普遍無意識を「支配」できるのか、などいろいろ考えてしまう。
この物語に出てくる人間、辰宮、壇狩摩、キーラ、聖十郎、甘粕、全員欲望剥き出しですよね。ただ一つ言えるのは、悟りを開くということは、真善美を極めるということとは全く違うということ。真善美を極めるだけならただ単に生き物であることをやめるだけになり、死ねばすむ話である。じゃあ具体的に悟りを開くってどういう意味ですかあ?と聞かれたら、ごめんよくわかんねえや。おそらくここでは己の欲望と向き合い、己を戒めて、一つのモータルな社会的存在として生を全うしようと努めることを「悟り」と呼んでいるんじゃないかな。ここでモータル(いつかは死ぬ)というのは重要視していただきたい。それこそが我々が悟りを必要とする理由であるとも感じられるから。永遠の命があるならば、我々は誰かに頼って生きる必要もなくなる。
それで、物部黄泉がもともと邯鄲の実験を試みた理由というのはよくわからないんだけど、戦真館はもともと軍事施設であり、洗脳をしてしまえばいいということも述べられているので、おそらくは邯鄲を用いて、人々に共通する意識である普遍無意識を支配して洗脳をするということが初期の目標だったんじゃないかと思います。これは時代背景からしてもしっくりくる。「神の軍事利用」という戦真館に課せられた使命と邯鄲法の能力である「夢を現実化させる、あるいは夢を閉じ込める能力」という設定の間でいかにうまく話をつなげるかがこの作品での見せ所になっていたはずなんだけど、ちょっとうまくいってないんじゃないかと。
ここから一気に議論の焦点をずらしてしまうけど、洗脳=思想の強要=イデオロギーの統一。という方向に考えてみたら、本来の洗脳はアプローチが逆になる。洗脳というのは人間の個性を失わせてそのすべてを(誰かの思想に)普遍化させる行為である。初めに普遍無意識ありきで、普遍無意識を支配することで洗脳完了とするのではなく、普遍無意識以外の意識、すなわち自由意思を喪失させて支配する行為である。ただこのやり方はあまりにも残酷極まりない。戦を通じて個々人にとっての真(この場合の真は英語に直した場合トラストに近い)を探し当てる。その過程で普遍無意識という概念を認め、普遍がわかるということは普遍以外もわかる、普遍と個性を区別したうえで、お互いを分かり合って絆を深め、より高度な社会性を築き上げるというのが多分この作品の主張になるはず。この普遍無意識に関するアプローチの対比は甘粕と戦真館の対比と相似する。
はたして、いつの時代も甘粕は悪であり、戦真館は正義になるのか。これは確実にノーである。資本主義も共産主義も状況次第で正否はどちらにも転がる。資本主義と共産主義だなんて難しい言葉を用いているが、ぶっちゃけ自分もその違いがよくわからない。両者の違いっていうのは、簡単に言ってどこまで自由意思を許容するかの程度の問題だと思う。
本来、資本主義というのは十分なモラルが存在する状況下においてのみその機能を発揮する。だから甘粕に言わせれば「資本主義者は性善説の奴隷」ということになるだろう。これはそれほど難しい問題ではなく、自由を認めた場合、それは個性を認めることになるから、社会(ソサイアティ)においては相異なる個性による衝突=競争が生じる。すなわち自由を認めるということは競争を認めることになる。モラルのない競争はもはやただの殺し合いになる。この物語でも協力強制なんていう単語が出てきたけど、その由来はこのあたりにあるんでしょうね。もしも自由競争を認めた場合に、お互いの間でルールが存在しなければ好き勝手やってよく、下手すりゃ殺そうが奪おうが何しても構わないということになる。これでは社会が破綻してしまう。
したがって社会的なモラルがなくなった場合は、資本主義よりも共産主義を採用したほうが社会は機能する。しかしながら、共産主義を採用した場合、自由意思を認められないことにより、己の行動に対して、意思を持たない分責任を持たなくなる。当然のことながら意思と責任は常に一体である。これを逆に言えば、意思を強制した場合は、その分の責任は強制したものが負うという。「あなたが好きにやって頂戴。その代り、責任はあなたがとることよ。」これは至極まっとうなことだと思うでしょ。けど「お前は俺の言うことを聞いていればよい。けれど失敗したらお前の責任だ。お前が悪い。」これは納得できないよね。けどね、世の中にはこういう理不尽を突きつける連中もいますよね。彼らの論理としては「俺の考えてることは常に正しいが、君は能力不足によって、任務を実行できなかった。だから責任は能力不足である君にある。」己のみを信じ、他者のすべてを否定する選民意識の塊の甘粕のような人間はこの理論を唱えるはずだ。
モラルが信頼できないゆえに、ルールを強制的に作り上げる社会を共産主義的社会と解することができるが、共産主義的社会というのはいつもこのようなロクデナシの独裁になってしまう。権力を一方向化するから、その妥当性を監視する立場の不存在がその権力の絶対化をより強固にする。それで本当に「共産」なのかといえば、文化大革命でも見ればわかるだろう。全然「共産」じゃない。ゆえに左翼的思想が正当化されるためには、誰からも認められるような高邁な思想が必要となる。この物語におけるその高邁な思想を象徴したものが普遍無意識だったんじゃないかな。けれども、それほどまでに高邁な思想であったとしても現実は現実であり、あらゆる理不尽を消すに至らない。ここからはもう完全なあてずっぽうになるんだけど、甘粕はそのような理不尽がもしも消せないのならば、己がその理不尽を支配して、ちょうどいい具合に分散させてやろう、それこそ甘粕自身が平等の神になろうとしていたんじゃないかと思う。実際に彼は邯鄲を制覇し、理不尽を具現化した神野と空亡を意のままに操っていた。けれども最後にはそのような世界はまやかしだと四四八に否定されてしまう。やっぱり左翼はダメなんだ。
甘粕は所詮極端な性悪説に基づいた人間であった。いや、聖十郎以上に己の絶対性に酔っていた。だから自分以外の存在は相対的にゴミ屑だと思っていた。他者に対して「勇気を奮え」などと言いながら、内心では己の上位性を堪能し、餌に食らいつく獣のようだとせせら笑っていた。四四八は、他者を認めることこそ悟りであると考えていて、結果としてこの世にあまねくすべての存在を受け入れることで普遍無意識にたどり着いた。当初の議論したいところからすると大分極端な話になってしまった感じがしますが。
で、ここからは今の時代は四四八君と甘粕のどちらがより妥当なのかという議論をしたい。四四八君は性善説、甘粕は性悪説を人間モデルの基盤としている。いきなり切り込むのはどうかと思うが、これって結局学歴の問題と関係してくると思ってるんですよ。今の時代はもうそのあたりの敷居はある程度取っ払われてるからやや古い議論になるけど、高卒の人間というのはどうも性善説を信じ切ってるというか、コンプレックスの裏返しなのか、大卒の人間を神格化して考える癖がある。その一方で、大卒(自分もだけど)の人間というのは、性悪説に凝り固まってるのか、とるものを取らなきゃ損だと信じきっている。まあ、大学に行けば、世の中っていかに腐っているかということがわかってくるから、性善説なんか絶対に信じなくなるんだよね。また、大卒の人間というのは、自分はエリートだからしかるべき収入を得る立場にいるなどと選民意識丸出しの人間がいる。
で、今の時代ってそういう選民意識の人間による性悪説によって、性善説を信じる人間が搾取されている構図になっているんだよね。農林業とか製造業とか、彼らは純粋で作る喜び、人に喜んでもらえるという喜びだけで満足していて、その分の社会貢献は本来非常に大きいはずなんだけど、ちっとも収入には結び付かない。その一方で、大して何の効果もない流通のサービスを行っている人間、はっきり言えばブローカーが善意を利用して大きな収入を得ているんだよね。せっかく情報通信が発達したんだから、本当は仲介業なんて本来いらないんだよね。だけど、仲介業の力は大きい。単純に言って、○○さんが作った農作物なんて評価されない。なぜならファッショナブルじゃないからなんだよね。お金持ちのドラ息子どもはそんな泥臭いものよりセブンイレブンやスタバやユニクロで買い物をする。(もちろんここで指すドラ息子は大金持ちじゃなく、ブランド志向である人間全員を指している、まあブルジョワというよりたんなるB層と言ってしまえばいいんだかそれはあまりにも身もふたもないだろう。)
そう考えると、資本主義というのは、性善説によって運営されていると考えるならば、どんどん政府が介入すべきなんだよね。最低時給1000円とかは素晴らしい提案だと思う。外食産業なんて今やインフラより大事だと思うぞ。地域間格差の縮小に役立つし、消費の活性、モチベーションの活性化につながる。国際競争力が劣る?それはあくまで株式を公開しているからそう錯覚するからで、全部非公開にすればいいじゃん。それでも問題ない。銀行だって金余ってんだろーが。(あ、そうか銀行も外資に制空権握られてるんだね。僕の質問にはいかイエスかダーかウィーで答えなさいってな。もうこの国はおしまいだな。)国民だって自民党がいいとか民主党がいいとか、政党ありきで政治を語るんじゃなくて、政策、もっとミクロに言えば提案レベルでの評価をするべきだし、マスメディアも提案レベルの解説をもっと詳しくやるべきだよね。政党分裂が結果的に国益として大きくマイナスに傾いている。タレントなんていらないから。だって今はそういう時代じゃん。イケメンがバカ騒ぎするより池上さんの詳細な解説のほうが数字とれるんじゃなくて?BSイレブンあたりに頑張ってもらうか。さよなら民放よ。
なんだか普遍無意識とイデオロギーの関係という厄介な議論をする羽目になったが、でも物語にはそういう側面もありますよね。これは全然関係ないとは思わない。甘粕(リアル甘粕じゃなくてこの物語にいる甘粕ね)が現実にいたらたぶんこういうことを言うと思うんだよね。あんまり偉そうにアジってんならもっと表に立ってやれと言われそうだからこのあたりで止めとく。だって運動なんて面倒だしぶっちゃけ運動しても自分の利益につながらないし。資本主義というのは性善説な優しい人間をバカとみなす思想のことを言う。まあ、搾取されないように注意しなければならない。
あともう一つ、個人的に述べておきたいことがある。それは男女観の話。
結局ね、女性の社会性と年金問題は同じことなんですよ。上の世代が傍若無人に振る舞ったから下の世代が大迷惑こうむってるっていうね。まあ、あまりこういうことをあれだけど、1970年代前半にだけは生まれないでよかったと思う。ロスジェネってどのあたりを指すのかわからないが、あれはきついだろうな。まあ生まれた環境にもよるからあまり関係ないけど。それと平成生まれでなくてよかった。それはまさに日本という国が熟しすぎた世代になって未来に希望を持ちにくくなっているから、という理由である。しかしながら、スキル次第では下剋上もいくらでも可能なので経済や家柄のハンデがありながらも能力に恵まれた人間にとってはむしろチャンスといえる。(かといって生まれたとき人類みな公平な状況ではないところが資本主義の矛盾である。)まさにモチベーションが問われる世代なのかなと。そして自分の生まれた年(84年組)から考えて、男に生まれてよかったとは思わないまでも、女に生まれないでよかったとは思う。女が強くなったとかいうけど、自分の世代においては女は強くなければならないという表現のほうが正しいはず。以前益若つばさが「真面目に生きるのは馬鹿らしい」とか言っていたが、それはもう、正論過ぎて泣けてくる。やはり女性は社会においては疎外されやすいし、出産の問題もあるし、歯食いしばって頑張ったところで、競争社会においては圧倒的に不利が多い。そもそも性根がやさしい人間は競争に向かない。それに女のほうが頭がよくて正確なことを言っていても、男のほうが馬鹿のくせに数だけは多いから「お前の言ってることは間違ってる、だって多数決とったらそうだもん。」などときわめて理不尽な理由を突き付けて否定されることも多い。(ただしこれは女が多い状況でしばしば男が経験することでもある。単純に労働環境によって大きく異なるだけの話ともいえる。)そういうの見てると、まじめに生きるより、さっさとATM見つけてパラサイトするのも選択の一つとして極めて妥当である。だって合法なんだもん。(それが資本主義特有の「自己責任」の弊害なんですよね。)そして安易にATM扱いするような女が増えたせいで、男も男で女性不信になって、どんなにまじめに生きている女までも信用されなくなる。一部の人間のせいでその他大勢が迷惑被る。ラブらブライドで女性主義が強くなったって書いたけど、それはあくまで文化的な側面において強くみられるもので、そこから副次的に労働や社会にも影響が表れたようなもので、かえって女性間格差を生んだかもしれませんね。それがモラルハザードにつながったのかも。つまりちやほやされるテクを身に着けて楽してる人間のほうが、まじめに生きる人間よりもよっぽど幸福になれる環境ができてしまったので、まじめに生きたら損だっていう感覚が共通認識として確立されてしまった。いやはや、女のほうが男よりも理不尽ですよね。努力したらした分の対価が見込めるという確実性は男よりも低い。それでも真面目に生きる人を見ていると申し訳なくなる。いや世の中の大部分の人は真面目に生きてるんだけど、そのはずなんだけど、果たしてどれぐらいの割合かな…。まあね、四四八の水希に対する発言は共感できますよ。「わかれよ、世良。女に知らず手を抜かれて、それを喜ぶ男もまたこの世のどこにもいない」「仮にお前の才能が、男の十倍あったとしよう。それで負けてしまったとしよう。で、それがいったい?だからなんだ。どうしてお前が遠慮しなければならないという、見当違いの話になる。この場合、男と女の正しい関係なそんな手抜きや加減の問題じゃなく。女に負けないよう、その十倍できなかったことを男は恥じなきゃいけないだけだろ?違うか?」…マジでかっこいいです。その通りだと思う。でも頑張りすぎは毒だ。「無理難題を吹っかけて男を辛くさせるのが、女の特権ってやつだろう?」…隊長、ここにATM48候補生を一体確認!命令を!…ま、男は男で強く生きるべきなんだろうな。世の中全員敵なんだよ!川で溺れてるやつを見たら石投げて息の根を止めるんだ。助けたらお前のせいで服が濡れたと賠償請求されてしまう時代なんだよ。
<ツッコみ&総括>
まず、甘粕っておまえ…大杉栄(光)っておまえ…伊藤野枝っておまえ…。甘粕は髪型がすでに状況外すぎる。それと単純に考えて甘粕VS大杉の戦いになりそうなんだがそうはならないのね。だけど甘粕は東條の子飼いかな?勉強不足なんであれだけど、自分の中じゃ岸信介の手下の印象が強いんだが。満州攻略に際し、里見甫が金を作り、岸が仲介役となって、実質的に甘粕がその資金を使って満州を開拓していったんじゃなかったっけ?この辺りはナーバスな問題だからあまりツッコめないけど。「満州は私の作品なのだ。」「次の私の作品は日本だ。」そう豪語したのが岸信介。今の総理は彼の孫ですね。「僕はどちらかというと祖父のDNAを受け継いでいる。」という現総理の発言に対し「安倍はバカだから成蹊」といった人もいたみたいだが。まあ安倍ちゃんはさすがに厚かましいよなあ。お爺ちゃんはただの東大生じゃなくて東大主席だからな。四四八君みたいなもんだよ。
絵はきれいだよね。いい感じに線が遊べていて、リアル寄りとも、デフォルメ寄りともいえないいいバランス具合。幻想性というような抽象性と、バトルものとしての迫真性、見事に表現できているのは、世界観をつかめているというか自分なりに構築している証拠ですよね。基本的なデッサンが崩れないのはプライドを感じさせる。ただやっぱり線がくっきりしているのか、和装より洋装のほうが上手に見える。ロムルスの描写とかは写真をスキャンしてコラした感じみたいだったけどね。実際どうなのかわかりませんけど、それはそれでありでしょう。できれば実物に頼らずイメージを書いたほうがいいのかもしれないが、表現手法は書き手の自由。それにしてもキーラたん可愛いよなあ。百合香さんも別嬪だよなあ。足をなめなさいって…お尻の穴だったらいくらでも舐めてあげるのに。あ、いや穴ならどこでも…ってここはそういう場じゃないんだよ!TPO(笑)をわきまえろ。修学旅行先で四四八たちもやってたみたいに口説くには文句が必要だよね。それでない頭必死に振り絞って考えてみた。「君は僕のシンデレラだ。」「僕はケビン・コスナーになる。」あれ、ダメ?タイムリーだと思ったのにい。映画観てる暇あるならさっさと研究しろよゴミクズが。お前が言うなとも思うが。
テキストは、かなり硬質ですね。五感に訴えるというよりはひたすら頭に響く感じ。かといってロボットが書いたような味気ない文章ではなく、正確に描写しようという感性で表現を細かくするために豊富な語彙が用いられている。感覚的な部分は演出に任せているのでこれはうまい手法。ただ正田さんが生真面目なのか、コメディシーンが寒かったかな。たぶんその生真面目な気質がテキストを硬化させているのでしょう。頭に響く感じになるのは、客観的に表現しようとしている、言い方を変えれば、自分の主観をできるだけ排除しようとする気持ちが知らず知らずのうちに出ているからではないのかなと思います。絵とは逆にテキストは遊べてない。あとこれは自分もよくやってしまうから責める気はまったくないけど、言葉の用い方が正しいのかどうか微妙な部分があったかも。五月雨ってそういう風に使いましたっけ?基本はしとしと雨って意味なんですが。
声は、狩摩のアクセントおかしくないですか。広島弁ってあんな感じだっけ?もっとフラットなアクセントだったような気がする。わりかし九州アクセントに近い印象があるんだけど、かなり関西アクセントに近くなってなかったですか?(自分も偉そうには言えないんだが。何せ関西といっても、京都、大阪、神戸、場所によって全然違う。)声は男性陣に味があるのは分かったけど、女性陣はむしろ普通すぎてつまんないというか、誰を当ててもそれなりの個性は出て仕上がっちゃうんですよね。勝負になるのが純粋に臨場感を出すための演技力だけとなると差別化を図るのが難しい。もちろん実力十分なのは認めるけど、臨場感を出すのが下手な人はそもそもほかのゲームでも採用されないから差はつかない。そのあたりも踏まえて考えると女性向けゲームのように思えてくるんですよね。にしても、どうも、天狗さん…。自分の中じゃすっかり親友状態だな。今回もまたやられ役というのが悲しいですね。まあ、昨年あたりから男性陣の声にも力入れる作品がちらほら見えてきてるのも、マーケットの拡大傾向がみられるからなのでしょうか?あと音楽は個人的に十分に楽しめなかった。そこまで頭が回らなかった。バトル音が多かったですね。なんだかニンジャ・ウォリアーことSASUKEに使われそうな曲が多いです。音楽詳しくないからあまりつっこめないですが、ジャンルが豊富だったと思う。ただ、やや似た曲調が多かったかな。
あとは小ネタ。とりあえず、攻略順は晶(互層)→歩美(六層)→鈴子(七層)→水希(八層)が無難だよね。短文にも書いたが、層のことを書くとネタバレになるからあえてもう一度ここに記しときました。層の話だけど、初めの部分が仮想現実ってことだから、四四八が現実だと思い込んでいた世界が第一層から第三層で、第一層は共通ルート+晶ルート、第二層は共通ルート+歩美ルート…という構造になっているという理解でいいのかな。四四八が夢を見る、言ってみれば夢の中の夢、つまり仮想現実(第一層~第三層)の中で夢を見ている状況の世界が第四層から第八層までの五階層に分かれている。これで問題ないと思うんだけど。
そうだと仮定すると、第四層において恵理子は亡くなったが、この場合、第一層下においても恵理子は死ぬ必要があっただろうか?彼女は四四八をサーバーとしてアクセスしていたんだっけ?だから四四八自身が生き返らせようとしないから生き返ることができないということなのか?でも、四四八はきっと第一層において恵理子の復活を願っただろうから、復活しないのはおかしいような気もするなあ。
ここからはくだらん話になるが、第二話でテストの順位張り出されてるけど、最下位付近の人間の名前が全員DQNネーム。そんな小細工してるヒマあるなら設定を破綻させるな。花恵ちゃん(26才処女)は「とにかく全部狩摩が悪かったってことでいいんじゃない?」ってそれは完全にメタ発言だろ。開き直ってんじゃねえよ(笑)。四四八はアラヤとの会話で壇狩摩の行動に対し「つまり、思い付きで賽の目を振った結果がこれかよ。呆れてものも言えやしないぞ」などと憤慨していたな。ならば言わせてもらおう。つまり、収拾がつかなくなってとった措置がこれかよ。呆れてものも言えやしないぞ。それとラストの甘粕バトルどうにかならんのか。「リトルボ~イ」ってそんな「どこでもドア~」みたいなノリで出されても困るんだが。これじゃ黒すぎるドラえもんだろ。ブラえもんってやつですね。こんなこっといいな♪でっきたらいいな♪よくねえよ。これは原作者に怒られる系ですか?
セルフつっこみの多い文章でごめんなさい。得点は高すぎるかな?でも、まずい点は確かに多いけど、それ以上に根本的に深い内容を持っているから、基礎点が非常に高いと見なして、減点材料を加味してもこれぐらいは出して問題ないかと。自分は社会性という観点からの議論に終始してしまったけど、強さとか男らしさとかその他にも語れるアプローチはごろごろ転がってるので、いろんな楽しみ方ができますね。あまりにも正田さんが律儀にいろいろ説明しようとしてどんどんボロが出てくるからかえって減点が増えてしまったような。加点法で言ったら100出してもいいかとも思うんですが。それにあまり偉そうに得点つけられない。考察する側にも非常に高いスペックを要求している。自分も扱いきれん。悔しい。完敗ですな。長文もごちゃごちゃになってうまくまとめられなかった。甘粕と四四八の思想的な部分は矛盾もあるはずだけど、難しくてうまく表現できない。少なくとも世界史をもっと知っておけば宗教とイデオロギーの関係は述べられたはず。実際作るほうはもっと大変だったと思いますよ。最低限出会えてよかったと言わしめる作品であることには間違いないです。これからもこれ以上の作品を目指して(鬼畜発言)頑張ってもらえたらいいかなと。世間的な評価は知りませんけど、他のジャンルにしても、これだけ難しい作品ってそんなにぽんぽん存在するもんですかねえ。勉強不足でわからないんですが、あんまりないんじゃないですか?やはりエロゲは残すべき文化だと思う。全年齢でもいいじゃないかというツッコミはともかく…。とりあえず、お疲れ様でした~。
<※ 狩摩は九州弁をしゃべれる人を選考したんですか。参考になりました。寧さんはいったいどこでそのような情報を調べて来るのやら。>
<※※ 寧さん、重ね重ねありがとうございます。ネットワークゼロの人間というのはとかく情弱になる運命なのです。(てめえがいろいろ無視しているからだろ!とセルフツッコミ。)頑張ってみます。参考になるアドバイスありがとうございます。>