蠱惑的な世界観をベースに、二人のヒロインが持つ歪んだ愛情の対比が興味深い。
ミオとの情交から幕を開けるこの作品、背徳的で陰鬱な空気を孕む作品世界へ一瞬にして放り込まれる。
この時点で、彼女の持つ病的なまでの偏愛気質といった歪んだ愛情をどことなく予感させるのだが、それはそのまま倒錯世界への入り口だ。
本作の舞台とは、壁と天井に囲まれた『レヴ』という街で、そこには昼も夜もなく、ただただ無秩序で退廃的な世界が広がっており、全貌を把握することなどは到底できないし、我々は、そうあるものとしてこの世界を受容するしかなく、一切の疑問を挟む余地はない。
また、本作の世界観を創り上げる特徴的な存在として、登場人物は“猫”、“人間”、“雑種”という種の区分がなされ、そのヒエラルキーとして、“猫”が上位、“人間”が下位に位置し、“猫”と“人間”の混血とされる“雑種”は忌避される存在として描かれている。
この「レヴ」では、“人間”の価値などあまりにも矮小で、作中でも“人間”いじめ、と言うには苛烈極まりないが、とにかくぞんざいに扱われる存在であることが描写され、しかし“猫”にしてみれば罪悪感の欠片もないのであろう。
これも、猫の持つ攻撃性や凶暴性といった気性を如実に顕しているようであり、人は気ままな猫に振り回されることを余儀なくされる。
このような理不尽な街で、本作の主人公、“人間”であるユーマは、どういう経緯かは不明だがバステトの店(仕立屋)で奴隷暮らしをしており、同じく生活を共にしている“雑種”のミオとは傷を舐め合うような依存した関係だ。
ミオは“猫”の慰み者になることも多々あり、その度にユーマに愛を求め隙間を埋める。
ユーマもまたミオから多くのものを貰い、バステトの店で今なお生活が成立しているのは一重に彼女のおかげであるようだ。
さて、メインヒロインと言えばもう一人、自身が生粋の“猫”であり、その“猫”達の中にあって、更に“猫”メイド達を携え、高みに君臨する女王ルカ。
彼女との出会いとは幸福であったのか、はたまた絶望であったのか。
窺い知ることは定かではないが、これによりユーマの生活は一変することになる。
ミオにとってのユーマの存在とは、前述したように、理不尽な環境で身を寄せ合える唯一にして絶対的なものであるのに対して、ルカにとってのそれは、ただ面白い、興味を惹かれる玩具に出会ったからという程度、要は“猫”にとってのお遊びの一環みたいなもので、言ってしまえば猫特有の気まぐれにすぎなかったのだろう。
だが一方で、何が彼女の琴線に触れたのか、
ルカ『私は我侭で、嫉妬深くて、独占欲が強いの』
と言うように、ユーマへの執着心を見せる。
まさに「オマエのものはオレのもの、オレのものもオレのもの」というようなジャイアニズムを体現しているかのようだ。
ルカ『この世界は自分の望み通りの形になっている』
この世界に“まとも”とか“普通”とかいったものは何処にもなく、極端な利己主義であれ、ここでは須らく肯定されるのだと嗜虐的な微笑が物語る。
ユーマを自分のものにするのだと。
ルカの理不尽な要求はとどまることを知らず、まさに傍若無人な女王様、いや、“女王猫”とでも言ってしまえばいいのだろうか。
ルカ役の声優さんのチョイスも絶妙で、上から目線を地でいくような、嗜虐的なボイスは、思わず跪いてしまうかのような魔性の魅力があり、イメージがここまでピッタリ嵌るとは舌を巻いてしまうことしきりである。
性的な玩具として、言葉責め、足コキ(というより足蹴)、強制クンニ、騎乗位逆レイプと、彼女のユーマへの甚振りは枚挙に暇がなく、尊厳を尽く踏み躙っていく。
ユーマもユーマで順調に躾もとい調教されていき、ミオとでは味わえない快感をルカへと求めるようになる。
反面、ミオも黙ってはおらずルカへの敵意を剥き出しにし、彼女との情交は次第に熱を帯び激しさを増していくと同時に、感情はどす黒く染まっていく。
主人公を巡る両者の対立、これは彼に対する愛情表現の対立と言い換えてもいいかもしれない。
ルカの攻撃的で突き放すような残虐な愛情と、ミオの保守的で束縛するかのような愛情。
ルカは、ユーマのマゾ気質を殊更に煽り、調教を施し思考を巧みに誘導する。
ルカ『お前はマゾなの。
酷く虐められないと心から感じることは出来ない身体なの』
知らず知らずのうちに彼女がもたらす快楽に依存してしまうかのような麻薬のような中毒性は確実にユーマを蝕み、まるで虜だ。
飼い主から離れられない飼い犬のように、彼は彼女に繋がれている。
決定権をユーマ自身に与えているようで、その実主導権は常にルカの側だ。
ミオは、ユーマの欲望を満たし、互いが互いにとっての全てだと盲信する。
ミオ『わたしはずっとあなたのものだったでしょう?
あなたはずっとわたしのものだったでしょう?』
ミオ『わたしとあなたは繋がり合ってなきゃいけないの。
どこへ行っていても、収まる場所はわたしだって決まっているの』
彼女にとって都合の良いユーマのままでありさえすればいい、そうでなくてはならないという妄執。
承認欲求を満たそうと彼の欲を叶え、一心に縋り付く、そんな一方向的な偏愛に他ならない。
このように、ルカとミオ、それぞれの愛情表現に顕れる互いの観念の違いは、ベクトルこそ違うが、本質的な部分には共通項が見受けられ、非常に面白い。
つまり両者共に、理性を剥ぎ取り、単純なまでの快楽の提供という一点において同一で、そこにSとMの抗えない関係性が巧妙に潜んでいる。
その狭間に揺さぶられるユーマには正直同情を禁じ得無いものがあった。
結局流されるままルカを選ぼうがミオを選ぼうが隷属的扱いであるのに変わりないのも、彼を支配する両者の性質が同じであった所以であろう。
果たしてこの結果がもたらしたものは屈辱か、それとも幸福か。
そんな倒錯的な結末もまた、この世界観と上手く嵌っていたように思える。
さて、本編をクリアするとオマケ要素としてルカとミオの人間時代(と言って良いのか分からないが)をショートストーリーとして読むことが出来る。
その人間時代と猫世界との因果関係は作中で明言されてはいないが、どうやら人間時代の欲望が顕現した世界が猫世界だと考えるのが自然だろう。
高貴な家の生まれで自由はなく、お嬢様として家のために尽くす道具のような存在、そんな呪縛からの開放を望む悲痛な叫びがルカのものだ。
傍若無人に振る舞う猫世界のルカの姿は、抑圧された欲望の反動、その発露である。
弟への過保護性、妄想的気質から肉体関係を結んでしまったのがミオで、インセスト・タブーに囚われず、ずっと互いを求め合っていられるような世界、それが彼女の欲する世界だ。
現に、猫世界でもそんな堕落した関係は、まるで人間時代の延長線上にあるかのように描かれる。
明確な判断材料がないため推測にしかならないが、彼女が猫世界では“雑種”として登場しているのは、つまりそういう忌避すべき背景からで、ユーマは欲望を持ち得なかったからこそ“人間”の姿のままだったのだろう。
欲望の赴くまま快楽だけを貪り続けることを赦された世界、そんな中に“猫”という存在をあしらえた本作。
好きなときに寝起きし、お腹が空いたら食事を取り、気ままに過ごす猫を見て、誰しも一度は「猫に生まれ変わりたい」なんて夢想したことがあるのではなかろうか。
私事になるが、筆者も昔猫を飼っていたことがあり、こたつの中で丸くなって惰眠中の気持ちの良さそうな寝顔を見る度に、悩みなんてこれっぽちも無いんだろうなぁ猫って良いなぁなどと憧れを抱いたものである。
話を戻そう。
つまり猫という動物に見る自由奔放さ、それに対する人の羨望、この「キトゥンフィリア」という作品はそうした境地に立っている。
地位や名誉、或いは道徳観や倫理観といった社会的モラルから脱却した欲望に忠実な世界があったならば、さぞかし甘美で魅力的だ。
しかし物語は問うのだ。
――お前は、世界が変わることを望んだ。
しかし、自分が変わることは望まなかった。
土は土に、塵は塵に、灰は灰にしかなることはない。
猫の世界でなら、王になれるとでも思ったか?――
結局世界がどんなに都合よく変容しても、自分が変化し得ぬ限り自己の立場が変わることはない。
最後に、世界観設定に伴う明確な判断材料が作中には無いので、そういう謎の部分が解明されないとモヤモヤする人はいるかもしれない。
だが個人的にはこれはこれで良かったとも思う。
種が分からないからこそマジックは面白いのであり、種明かしとは得てして舞台そのものをぶち壊しかねないから。
謎は謎のまま、そんなミステリアスな雰囲気に酔いしれようではないか。
◆余談
作中、金魚屋の彩葉の台詞に以下のようなものがあった。
「この子たちは“嗜好品”だから、綺麗であることは義務なのよ」
この子たちというのは売り物である金魚のことなのだが、嗜好品として綺麗であらねばならないというのは、当然金魚にとっての都合などは無視し、あくまでそれを嗜む者にとっての都合のみを抜き出している。
これは、ともすれば、アニメなり漫画なりゲームなりの創作上ヒロイン像を象徴しているように見て取れる。
まるで猫世界のようにユーザーの欲望を忠実に満たしてくれる都合の良い存在としてのヒロインたち。
そんなヒロイン像に纏わる議論は長くなるので割愛するが、まぁ何が言いたいのかというと、本作のヒロインとは、その都合の良さを主人公自身に求めており、先の表現を流用すれば、これは金魚にとっての都合がぶちまけられた作品と言えるのではないか。
そんな、綺麗であることを義務付けられたヒロイン像に対する皮肉めいたものを本作を通して感じ取ってしまった。
“エロゲ”の世界でなら王になれるとでも思ったのか、と。