物語とは、須らく必然性の集積である。人間と、幽霊と。そんな交差を描いた“幽霊的モラトリアムノベル”
「幽霊的モラトリアム」とはよく言ったものだ。
幽霊をつまり、モラトリアムという語に当て嵌めて解釈してみると、人が死後、成仏するまでの猶予期間とでも言えばよいだろうか。幽霊という存在は須らく成仏されなければならないというの世俗的な基本理念であろう。しかし尚、この世に未練を残して漂い続ける幽霊は、前進することも後退することもなく、停滞を選ぶ。それが幽霊にとってのモラトリアムであるならば、そんな幽霊と同じように我々も学生生活に未練を残し、ずっと学生でいたい、社会へ出たくないと子供のような理屈で停滞を選びモラトリアムを詭弁を持って正当化するのだ。
本作は、そんな停滞し続けるモノ、それは幽霊であったり、人間関係であったり、現実逃避であったり、そんな“弱さ”を暴き立て、矯正し克服していく物語である。
思えばこれは前作Minstrelでも見られたテーマだったなぁと。
本題に入る前に、ざっとシステム的な面について。
今作も、前作と基本的な構造は同じであり、章仕立てのシナリオは章毎が短編として完結性を持たせている。各章毎に起承転結がしっかりなされており、章単体で見ても読み物として十分に楽しめるものとなっている為、途中で中弛みしにくいのは好印象。
また、吹き出し演出により小気味よく展開されるセリフは躍動感に富み、吹き出しで埋め尽くされた画面からは感情のうねりが聞こえてくるようだ。同人作品らしくボイスレスではあるが、それを補って余りあるほどキャラクターを感情豊かに表現し、そこに臨場感が生み出されている。命を吹き込まれたかのように活き活きとしたキャラ達の掛け合い。多大な手間がかかっているだろうことは想像に容易いが、それでもこのシステムを今回も採用してくれたことには大変好感が持てるところだ。
さて、それでは早速内容の方に踏み込んでみたい。
石像のように部屋の隅に座る幽霊少女は、僕に一人暮らしの充実感を喪失させていた。
「きみはだれ?」
と僕は訪ねて。
『かすみ』
と、声ではなく文字でそう答えた。
そんな幽霊少女と初めてコンタクトをとったその日、五月の始まりに。
「透明」な物語は、僕達の帰る家「苑馬荘」を中心にして動き出した――。
“しとしと”と、“ぽつぽつ”と、“ざあざあ”と。
僕の中でクリアレインは悲しく降り注ぐ。
(公式より)
「苑馬荘」の住人はそれぞれ何かしら問題を抱えており、サナトリウムのように患者をぶち込んだ療養施設のようなものかもしれない。管理人の努めは、詰まる所、彼らのセラピーだ。
もっとも、その役割は知らずのうちに主人公が担うことになる訳だが、まんまと彼女の思惑通りに行動する主人公の役回りが実に面白い。
能動的な行動は見方を変えればひどく受動的であったというのは、ルクル氏の一つの主義というか、そんな一貫した何かを感じてしまう。
各人それぞれの持つ“停滞”とは何か。
アリスの停滞とは、妹テレスの死を認められず、決着を付けられずに今日まで過ごしてきてしまったこと。テレスという霊は、彼と母親とが望んだ逃避から生まれ、呪縛のようなそれは、今に至るまで彼女を縛り続けていた。
空の停滞とは、幻想に恋して、過去から目を逸らしているということ。心の支えとしてロリ空さんという自己投影幻視体を無意識に作り出し、夢見がちに口にする一番好きな人とは、彼女のつくった幻であった。
紫の停滞とは、現実に納得できず、人に理想を押し付け続けているという空想に想いを馳せるような青臭さ。何かと付けて主人公へと嫌悪を向けるのは、理想と現実の激しいギャップを目の当たりにした失望からであった。
それぞれが自分自身と向き合い、決着をつけながら、受け入れながら、折り合いをつけながら、停滞を解き、前進し始める様はとても清々しい。真の意味で時計の針は動き出したのだ。後述するが、更にこの問題解決というのが後の伏線として大きな意味を持っている点も、今作の完成度の高さたる所以である。
そして、主人公の停滞とは……
かつて他人に無関心であった主人公は、病院で乃々香という女性と出会い、その強烈な魔性へと惹かれ、やがては恋に落ちていく。しかし、他ならぬ彼女の手で記憶は抹消されていた。主人公の弱さとは、初恋及び大切な人の死を引き摺り、停滞前線のように一向に晴れる気配のない雨模様のような心である。作中、主人公は幾度もクリアレインを幻視するが、それは決まって心が揺さぶられた時。友達について思慮を巡らした時だったり、人間関係を構築することに臆病な自分自身を自覚した時、この透明な雨は顕現し、本能のところで乃々香の死を悼んでいる。しかし涙を流す事はなく。
そう、失うことへの恐怖、これがクリアレインの正体で、彼女の残した置き土産であり、呪いそのものだ。
3章で意味ありげに管理人は言った。
「クリアレインは君から何を奪ったのだろう?」
「君はクリアレインに何を押し付けたのだろう?」
その含意するところは明らかだ。
他人に興味がなく、他人が嫌いで、他人と触れ合うことが出来ない。他人が怖いという心理。これは裏を返して見れば、友達を大切にしすぎていることに他ならない。
「一度友達だと決めた相手のためなら身を挺して友達のために行動することが出来る。」とエトーくんは評し、「大切なものは、少ないからこそ大切なんだ」と主人公は言う。だから、寂しいから友達をつくるのではなく、大切にしたいからこそ、抱えきれるだけに留めておきたいと。
しかし、数は少なければ少ないほど良いと割り切る一方で零にだけはしたくないと、根本のところで友達を欲しているが、どうにも前進できず友達はいらないという自己欺瞞。この矛盾こそ主人公の抱える弱さであり停滞である。
作中で主人公はしきりに「いつまでも一緒にいてくれ」、「勝手に成仏はするな」と霞ちゃんに念押ししていたが、これは何の関係性の変化もないことを良いことに、利己的な押し付けに他ならない。ところで、停滞した関係とは須らく主人公の必須スキルであったなぁなんて、いらんことを思い出すが、不変的な関係性とは実に居心地が良いのだ。
しかし、停滞とはいつかの前進の意を含有するはずで、状況の変化は訪れるように、霞ちゃんは自身のタイムリミットを悟り、現状を打破すべく告白に踏み切る。
終わりへと向かう物語は何故こうも胸を掻き立てるのだろう。
生まれた瞬間から死へと刻み続ける秒針のように、逆らえない摂理をそこに見出しているからだろうか。
「死ぬことを知ってて、別れることを知ってて、それでも人は誰かを求めちゃうんだよ」とアイちゃんの言葉が胸を打つ。
二人だけの宴に霞ちゃんのポロッと漏れた言葉があった。
「霞さんは、ずっと酔っていたのかなぁー」
「酔っていたかったのかなー、酔ってみたかったのかなー」
「自分に酔っていたのかな、気持ちに酔ってたのかな、心に酔ってたのかな」
「酔って全部忘れちゃえたら、いいのになぁ……」
幽霊的モラトリアムが重くのしかかる。彼女にとってはきっとけじめなのだ。酔いから覚めるために、酩酊を実感するために。
霞ちゃんから別れを告げられた3人は三者三様に葛藤へと明け暮れるが、しかし、どうしようもない無力さを自覚し打ち拉がれる姿に、ただひたすらに歯痒く胸が痛むのは、霞ちゃんとの思い出が彼女たちとの間にも確かに築かれていた証である。
ところで、幽霊という題材を扱う時、生者と死者を分かつ壁として悲哀へと転化させるのはある意味常套手段である。しかし、そんなストレートで純粋な告白が、恋を叶わぬと自覚する彼女の諦観が、それでいて生を全うしたかのような安らかな笑顔が、猛烈に感情を揺さぶるのだ。
霞ちゃんとの別れに、ここぞとばかりにクリアレインは顕現する。思えば、私はこの時初めて主人公を苛む心の雨に触れたのだと思う。大切な人を失ってしまうという悲しみに。
偶発的な事象など物語ではあり得ず、全てが必然、何らかの意味を持つ伏線だ。
「とり憑く幽霊に理由はあるし、とり憑かれる人間にも理由がある」とアイちゃんは言った。
あれほど友達をつくることを躊躇っていた主人公が、いとも簡単に霞ちゃんを好きになれたのは、やはり運命的な結び付きを邪推させる。言葉を取り戻したことで有耶無耶になってしまった、霞ちゃんが主人公の部屋へと現れた要因は、しかし、作中何度も霞ちゃんとの出会いを示唆し続けていた。霞ちゃん、クリアレイン、主人公の正体…等々輪郭がはっきり見えてくるに従って読者に敢えて先読みさせ、徐々に核心への包囲網を狭めていくが、そのようにヒントをばら撒かれながらも直前まで核心に気付かないのが今作の構成の上手さである。
「私は君を、成仏させてあげるからね」との最初の爆弾に、プレイヤーは、主人公死亡説を半ば予感しながらも確定には至らず、シュレーディンガーの猫にも似た、確証がないまま果たして生きているのか死んでいるのか、そんな重ね合わせのせめぎ合いを強いられる。
第二の爆弾として、アイちゃんと訪れた交差点に供えられていた花束と、「もしかしてこの場所では、もう一人、誰か悲しい事故に遭ったのかもしれない」と仄めかす台詞に疑念は増幅する。そして畳み掛けるように、「もしかすると僕は今を生きていないのかもしれないね」との主人公の独白によりミスリードは加速する。
アリスの「お前は、誰かを好きになったことって、ある?」という問いかけは、まさしく核心に迫る内容だったはずだ。
まぁ結論から言うと、第三の人物「神作乃々香」という存在が居たという、紛うことなきミスリード。乃々香とはつまり神の視点である。それはつまり我々との同一視点。この手のトリックは某SF作品が評価として名高いけれども、それに似た驚きがあった。紅が彼女の名を口に出したことがトリガーとなり、彼女を神の座から引き摺り下ろすことになる。
奇跡でも何でもなく、単なる管理人あるいは神の気まぐれ。全ては予定調和である。
――この世界に無意味なことはないんです。
――全てが繋がり合って、全てがある一点に向かって収束している。
――一見関係のないもののように見えて、それがもっとも重要なものだったりして。
――そうやって僕達の運命は複雑怪奇に絡み合う。
――そして僕たちは、そんな物語をどこまでも受動的に受け入れることしか出来ないんだ。
作中、鶴の折り方を知らなかった主人公。
この時点で何がしらの不自然さ、物語における因果を読者は感じ取るのはある意味必然であり、主人公の記憶がぽっかり抜けていることと関連性を見出だせる。後に、失われた記憶が再現され、千羽鶴というパーツが登場して初めて我々はパズルのピースが嵌ったかのような、伏線が晴れて処理されたかのように錯覚する。
勿論、これはある意味当たっていて、しかしある意味外れている。何故なら、この千羽鶴から連想しなければいけないのは、忘却していたかつての恋人ではなく、きっと霞ちゃんの方でなければならなかったはずだから。
その時点では、乃々香の方に意識を傾けるだけで、その依頼人であるはずの患者のことなど気にも留めなかったのだと主人公共々猛省せねばならないだろう。目先の正解に颯爽と飛びついたがしかし、これはライターの垂らした巧妙な釣り餌であったことを、我々は遅れて気付く。まさに思う壺というやつだ。巧みに読み手の思考を誘導する手腕は前作でも感じ取れたものだが、底知れないライターの器量に舌を巻くばかりである。
もっとも、私が騙されやすく、単に脳みそが足りていなかっただけだと言われれば涙目で閉口するしかないわけであるが。
千羽鶴に込められた意味とは、適当に気が向いたらと鶴を折ろうとする主人公と、一方で期待を膨らませながら待ち続ける霞ちゃんにとってのハッピーエンドを約束するかのような希望であった。しかしそれは、一切の努力をせずに結果を求めようとする主人公は一方にとってみれば冒涜にも程がある。これは何の運命の悪戯だろうか。あまりにも天秤が釣り合っていない、噛み合わない歯車のような因果を呪わずにはいられない。だが現実問題、見ず知らずの人間に、自分の時間を捧げてまで真剣になれる人がいるだろうかと考えた時、この世の割り切れなさを改めて実感する。しかし、主人公と霞ちゃんを引き合わせたのは紛れも無くたった一つの約束であることは変わらない。
そうだ、鶴を折ろう。
鶴を折るという行為は本来祈りであるはずだ。だから懺悔の意味で何千羽と折っても、それは紙切れ以上の価値にはならないし、何の結果にも繋がらないことは自明である。袋小路の絶望と、自問自答に見せかけた乃々香との対話はなかなかに滑稽で無様で良い感じの壊れ具合。自責の念に駆られた主人公は閉じこもってしまうという自棄っぱち。そして、すぐ側に友人という救いがあったということに気付かなかったというオチがつくのだが、乃々香という隠れ蓑には一杯食わされた気分。
ところで、主人公が能動的にヒロインの抱える問題を解決へと導いていくのは、ある意味お決まりのストーリーだ。少し作品を最初から振り返ってみると、半年間、主人公は住人の問題解決へと奔走していた。
部屋の片隅に突如として存在していた霞ちゃんとの出会い、
偶発的、いや必然的に取り憑いたアイちゃんという幽霊と友達になって、
呵責に苛まれて衰弱していたアリスの助けになって、
過去から目を逸らし夢に逃げていた空先輩を現実に引き戻し、
悪霊に取り込まれた紫を救った。
しかし、それらは全て自分自身へ向けられたメッセージでもあった。最終話にて、これが綺麗に収束する。
因果応報という言葉がある。行為の善悪に応じて、報いを受けるというものだ。
霞ちゃんとの約束を反故にした罪悪感は主人公を蝕み、その一方で、アリス、空、紫と3人へ救いの手を差し伸べたのも彼である。故に、自身の弱さを晒した主人公は仲間へと助けを求め、彼らは快く手を差し伸べる。
そうするだけの信頼を、友情を、勝ち取ってきた証左である。
クリアレインという呪いから解放され、涙を流した時、ついに主人公の時間は動き出したのだと思う。クリアレインは心の雨から本当の涙へとその意味を変容し、雨を運ぶ停滞前線は去っていったのだ。即ち、モラトリアムからの脱却。前を向いて生きるという力強い生命力が、この物語には根付いている。
思えば、幽霊を主軸とした物語はよく出来ている。彼らが現実と空想を行き来するように、霊的事象という半リアル的存在は本作を表現するのに正鵠を射ている。何故なら、この物語自体そんな半幽霊的な存在であるから。どういうことかと言えば、我々もまた現実と空想を物語を支点に行き来し、物語から現実へと干渉を受けるということだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花なんて諺もあるが、この作品は物語でありながら、絶えず現実とリンクさせてくるのである。つまるところ我々読者への問題提起であり、問いの投げかけだ。
時に、“宴”というサークル名とは。
もしかしたら、ライターは物語を宴のようなものと捉えているのかもしれない。その宴の間だけは、一時の快楽を享受し、雰囲気に酔い痴れることを許される。しかし、その一方で、「酒は飲んでも飲まれるな」という格言があるように、溺れることを許さない。だから本作は絶えず現実とリンクさせることを忘れない。物語へ没頭している我々へと物語という世界を離れて言葉を投げかけ、現実へと浮上させる。まるで冷水を浴びせられたかのように酔いが覚めるのだ。今作が掲げたものは、これまで何度も出してきたように、停滞したままのモラトリアムにいつまでも浸かっていることを非難し、現実を見据えろという願いとして感じ取れた。そろそろ大人になれよ、と。それは、ふわふわと彷徨う曖昧な霊という存在と対比させるかのように、どこまでも地に足の着いたメッセージだ。
そしてもう1つ。
友人や仲間という存在も今作を貫く主柱であることは間違いないだろう。苑馬荘を拠点としたコミュニティは住人との強固な結び付きを描き、交流という意味で描写面では申し分なかったし、マルチザッピング的な視点の変化も一役買っており、各々の心情の理解の助けにもなっていた。今作をひと通りプレイして改めて考えてみると、停滞という逃避と友達という存在は互いに密接に関わりあっていることを得心する。心的葛藤を抱え込み、にっちもさっちもいかなくなってしまった先に、問題から目を背け逃避を選ぶ。逃避とはそれ即ち自身の弱さの証明に他ならない。自身の弱点というものは他者に指摘されて初めて気付くものであったり、自力で乗り越えることの出来ない大きな壁なのである。
そういう意味で、友人(それは人によって家族かもしれないし、恋人かもしれない、はたまた会社の上司や同僚になるかもしれない)の存在というものは必要以上に大きく、主人公が最終局面にて助けを求めたように、また主人公が彼らに手を差し伸べたように、人間の究極的な弱さとは孤独ということになるのかもしれない。
作中でアリスが心を読めるということを告白した時、それでもなお友人であり続けようとした彼女らの純粋性からは、「人は一人では生きていけない」などという今更すぎるくらいの幸福を訴えているように思えた。
「そもそも他人の存在なんて、自分の世界の外側に置いてしまっていますから。外側の人間は絶対的に、内側へ干渉することは出来ない。俺の世界に存在しているのは、自分自身と神作さんと、煌めく星空だけ」
かつての主人公は物事をドライに考えるといった傾向が見受けられたが、友人というファクターはそんな過去の主人公との対比でもあり、このような心境の変化は実に感慨深くもある。
話は少し変わるが、最後に霞ちゃんの造形について勝手な持論を述べさせていただきたい。
今作は、章仕立てになっている弊害とも呼べるだろうが、各章に1人キャラクターを宛てられるがために、必然的に主役ではない霞ちゃんとのやり取りは隅に追いやられてしまう形になる。だから、最終話で彼女への心情理解に説得力に欠けそうだという弱点がある。客観的に見れば、確かにそうではあるが、私はこれを肯定したい。
描写の不足というものはライターの怠慢と言っても良いのかもしれないが、なにぶん一切の無駄を削ぎ落したかのような本作だ。日常描写は尽く排除されてしまった可能性は否めない。しかし、一方で日常描写というのはキャラとの仲を担保するような、そんな基板として重要な部分でもある。であるならば、これには何がしらの意図があったと読み取ることはできないだろうか。
まず霞ちゃんを具体化するならば、人形のような容姿やお茶目で愉快な、そんなチャーミングなキャラクター性が目を引くわけだ。また、独特の口調や容貌、言うなれば絵に描いたような二次元キャラクターという印象である。贔屓目すぎるかもしれないが、このようなキャラを宛がうことによって、何の説明もなしに瞬時にプレイヤーを魅了させやすくなっていると思われる。だから、ある程度の描写を省いたとしても、読み手の印象に残り続け、すんなりと親和することができるのではないだろうか。
実際、日常的なワンシーンとして、主人公と霞ちゃんとの戯れ合いの一端を見ているだけで、一を聞いて十を知るような、そんな感覚に陥ってしまう。変わらぬ反復的な日常として、そんな関係性を読み手はインプリンティングすることで常時繋がり合っている状態を擬似的に体験できる気がするのだ(少なくとも、霞ちゃんを見初めてしまった私はそうであった)。仮に、霞ちゃんというキャラクターが地味目なキャラクターであったなら、このようにはいかず、他キャラに押され埋没してしまうことは避けられなかったように思える。強烈なインプレッションはテクスト以上にキャラクターを雄弁に表現し得るし、変わらぬ日常という停滞現象を反復イメージとして逆手に取った妥当性と言っても良いかもしれない。
また、心情的な部分からアプローチを試みてみるならば、まるで愛玩動物みたいな気配を遺憾なく発揮している彼女であるから、我々プレイヤーも“好き”というベクトルを見誤ってしまったのだ。恋人役には不相応で、愛でる対象としての娘とかいう、そんな認識。だから、ずっと傍に居てくれればいいなんて、そんな主人公の慟哭と重なる。
もちろん、先に断った通り、これは私の勝手な憶測であり、私の脳内で本作をより説得力ある作品へと仕上げるためのこじつけに過ぎないことは重々承知の上である。霞ちゃんに抱いた想いをあれこれ理屈を付けて正当化したかったのかもしれない。言い換えれば、理屈を捏ね繰り回さねば安心できない私の弱さということにもなるのだろう。
そんな戯言ではあるが、ここに記しておきたい。
◆雑記
※アリスとテレス(字面に起こしてみて初めてクスっときてしまった)。この兄妹の膠着関係をチェス用語で言うところのステルスメイトとして表現しているのは面白い。そして、そこから派生するステルスメイト、見えない仲間か。なるほど、言葉遊びが上手い。
※4章で空先輩に「好かれたから好きになるだなんて、そんな浅い気持ちで答えたくはなかった」と切り返す主人公は、後に世に出される「運命予報をお知らせします。」の主人公とヒロインの立場が逆転したものを感じた。そして、運命予報では今作でも触れていた恋心の在り処を徹底的に追求していくのであります。
※プロニートさんの仰る言葉は、社会に適応できないことを正当化しようとする言い訳に聞こえるかもしれない。しかし、裏を返して真意を汲み取るとするならば、大人になるということは清濁併せ呑まなければならないという戒めだと感じられた。
※乃々香との結び付きは18禁で身体の繋がりまで描いてくれれば更に凄みのある物語へ仕上がっていた気がする。病院での度重なる逢瀬。肉体関係があったとした方が、両者の未練など、感情面でより説得力あるものになっていただろうことを思うと少し残念な気分である。エロとは何も抜くためだけにあるものではない。
※霞ちゃんマジ天使